。自分の小さな雑誌の中にとじこもっていた。一、二の例外を除いては、諸新聞雑誌は彼らの味方でなかった。彼らは怜悧な面白いりっぱな人々ではあったが、孤立してるために往々逆説に傾きやすく、また仲間だけで言論する習慣のために、仮借《かしゃく》なき批判と饒舌《じょうぜつ》とに傾きがちだった。――その他の批評家らも、和声《ハーモニー》の初歩を急速に覚え込んでいた。その新しく得た知識に感心していた。ちょうどジュールダンさんが文法の規則を学んだ時のように、彼らは自分の知識に恍惚《こうこつ》となっていた。
「デー、アー、ダ。エフ、アー、ファ。エル、アー、ラ……。ああ実にいい……。何かを知るのは実にいいことだ!……」
 彼らが口にすることは、主題や副主題、陪音《ばいおん》や結合音、九度の連結や長三度の連続、などばかりだった。ある楽譜の中に展開する一連の和声《ハーモニー》に名前を与え得ると、得意然と額《ひたい》をふいていた。その楽曲を説明し得たような気がし、それを自分で書いたような気がしてるのだった。しかし実を言えば、学生がキケロの一ページに文法的な分解を施すのと同じく、彼らはその楽曲を学生語でくり返したのにすぎなかった。そして彼らのうちの最も優良な者にとっても、音楽を魂の自然の言葉だと考えることはいたってむずかしかったので、彼らは音楽をもって絵画の一分派だとするか、あるいはまた、音楽を科学の末に列せしめて、和声的構成の問題だけにしてしまいがちだった。かかる学者らは、当然過去の音楽家にまでさかのぼらずにはいられなかった。彼らはベートーヴェンのうちにも欠点を見出し、ワグナーをも攻撃した。ベルリオーズやグルックにたいしては熱罵《ねつば》を浴びせた。彼らにとっては、この流行の際に当たって、ヨハン・セバスチアン・バッハやクロード・ドビュッシー以外には、何者も存在しなかった。そして、近年あまりにもてはやされたこのバッハでさえも、すでに衒学《げんがく》的で陳腐《ちんぷ》であると見なされ始め、要するに多少子供っぽいのだと見なされていた。ごく秀《ひい》でた人々は、ラモーやまた偉人と言われてるクープランなどを、妙に賞揚していた。
 それらの学者の間に、激しい争論が起こっていた。彼らは皆音楽家だった。しかし皆が同じ態度の音楽家でなかったから、各自に自分の態度だけがいいと称していた。そして仲間の者らの態度をす
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