とらえることができなかった。注意のこもらないぼんやりした彼の近視眼は、おもむろに食卓を見回して、人々の上にじっとすわりながらも、別に見ているようでもなかった。けれども彼はだれよりもよく人々を見ていた。ただそれを意識していないだけだった。彼の眼は、ごく細かな物の断片を嘴《くちばし》でくわえてそれを一瞬間に噛《か》み砕くような、それらのパリー人やユダヤ人などの眼と違っていた。彼は海綿のように、沈黙のうちに徐々に人々を吸い込み、そしてもち去るのであった。彼自身も、何にも見ず何にも記憶しないような気がしていた。彼が一人になって自分自身のうちをながめ、すべてを奪い取ってきたと気づくのは、長い後――数時間またはしばしば数日の後――であった。
しかしこの時彼は、一口も食べそこなうまいとしてやたらに頬張《ほおば》る、愚鈍なドイツ人の様子をしか示していなかった。そして、仲間の者らが呼びかわす名前よりほかには、何にも聞き取っていなかった。それら多くのフランス人が、フラマン人やドイツ人やユダヤ人や東洋人やイギリス産アメリカ人やスペイン産アメリカ人などのような、外国人的な名前をどうしてもってるのかを、彼は酔っ払いの執拗《しつよう》さで怪しんでいた。
彼は人々が食卓から立ち上がったのに気づかなかった。ただ一人すわったままでいた。そしてライン河畔の丘、大きな森、耕された畑、水辺の牧場、年老いた母、などのことを夢想していた。数人の仲間がまだ、室の向こうの隅《すみ》で立ち話をしていた。多くの者はもう出かけてしまっていた。彼もついに思い切って立ち上がり、だれにも眼をくれずに、入口にかかってる自分のマントと帽子とを取りに行った。それらを身につけてから、挨拶《あいさつ》もせずに出かけようとした。その時|扉《とびら》の開き目から、隣りの控え室に、ある物を見つけて夢中になった。それは一台のピアノだった。彼は数週間なんらの楽器にも手を触れたことがなかったのである。彼はその室にはいり、なつかしげに鍵《キー》をなで、腰をおろしてしまって、帽子をかぶりマントを着たままで、演奏し始めた。どこの家だかすっかり忘れていた。二人の男が聞きに忍び込んできたのもわからなかった。一人はシルヴァン・コーンだった。彼は音楽熱愛家だった――なぜだかは人間にはわからない。というのは、彼は音楽に少しも理解がなかったし、いいのも悪いのも
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