微妙謹直な精神をもって、娘の自由を取り計らってやるのは」母親たる者の役目である。――「年若な娘らは現今、講演会や友人の家の茶話会などから平気な顔でもどってくるが、それと同じ様子で情人のもとからもどってくる」時代が、やがて来るであろう。
 コレットは笑いながら、こういう教えはきわめてもっともであると断言していた。
 クリストフはそれらのことが大きらいだった。彼はその重大さとそれが流すかもしれない害毒とを、誇張して考えていた。ところがフランス人は、文学を実行するにはあまりに賢い。それら小型のディドロー輩は、大ドゥニーの小銭は、普通の生活においては、大百科辞典の非凡なパニュルジュのように、他の人々と同じく正直でかつ気の小さな市民となっている。彼らは実行においてかく臆病《おくびょう》であるからこそ、でき得る限りの極端にまで実行を(頭の中の実行を)押し進めて喜ぶのである。それは少しも危険のない遊戯である。
 しかしクリストフは、フランス式の享楽者ではなかった。

 コレットを取り巻いてる青年らのうちに、彼女から好まれてるらしい者が一人いた。もちろんこの青年はまた、クリストフにとっては最も堪えがたい人物でもあった。
 それは、貴族的な文学を書いたり第三共和政の貴族をもって任じたりしてる、成金の息子連中の一人だった。名前をリュシアン・レヴィー・クールといった。両方に広く離れた眼、鋭い眼つき、曲がった鼻、厚い唇《くちびる》、ヴァン・ダイク風に先とがりに刈り込んだ金褐色《きんかっしょく》の髯《ひげ》、よく似合ってる早老の禿《は》げかかりの頭、舌ったるい言葉つき、優美な物腰、いつも揉《も》み手をしてる細い柔らかい手、をもっていた。非常な丁重さを、巧妙な愛想を、いつも装《よそお》っていて、実は嫌《きら》いで排斥したがってる者にたいしてもそうだった。
 クリストフは前に、文学者らの晩餐《ばんさん》会へシルヴァン・コーンから初めて連れて行かれた時、この男に会ったことがあった。そして、言葉をかわしはしなかったが、その声を聞いただけですでに、一種の嫌悪《けんお》を覚えた。彼はこの嫌悪の理由が自分でもわからなかったが、あとになってその深い理由がわかるようになってきた。人には愛情の突発もあれば、また憎悪《ぞうお》の突発もある――と言うのが悪ければ――(あらゆる情熱とともに憎悪という言葉をも恐れるやさ
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