おける芸術趣味の一の法則たるシーソー的な方法で、すぐにベートーヴェンから離れてしまっていた。フランス人は自分の考えを知るためには、まず隣人の考えを知りたがり、それによって、同じように考えるかあるいは反対に考えるかするものである。かくて、ベートーヴェンが広く知られてきたのを見ると、音楽家らのうちの最も秀《ひい》でた人々は、ベートーヴェンも自分らから見るとそう秀でた者ではないと考え始めた。彼らは世論に先んじようとしていて、決して世論のあとに従ってゆこうとはしなかった。世論に同意するよりはむしろ、それに背を向けたがっていた。それで彼らはベートーヴェンをもって、金切り声で叫ぶ聾の老人だとした。傾聴すべき道徳家ではあるかもしれないが、音楽家としては買いかぶられてるものだと、断定する者さえあった。――そういう悪い冗談は、クリストフの趣味に適しなかった。また上流人士の心酔もやはり彼を満足させなかった。もしベートーヴェンがその時パリーへ来たら、彼は当時の獅子《しし》となり得たであろう。惜しいかな彼は一世紀前に死んでいた。それにまた、感傷的な伝記によって世に広く知られてる、彼の生涯《しょうがい》の多少小説的な事情の方が、彼の音楽よりもさらに多く、この流行を助けていた。獅子のような顔つきをした彼の荒々しい面影は、小説的な顔だちとなされていた。婦人らは彼に同情を寄せていた。もし自分が彼を知っていたら彼をあれほど不幸にはさせなかったものをと、彼女らははばからず言っていた。そしてベートーヴェンがその言葉を真面目《まじめ》に取るの恐れがなかっただけに、なおさら彼女らはその寛大な心をささげようとしていた。がこの好々爺《こうこうや》はもはや故人となって、何物をも求めてはいなかったのである。――それゆえに、名手や管弦楽長や劇場主らは、多くの憐憫《れんびん》を彼にかけてやっていた。そしてベートーヴェンの代表者だという資格で、ベートーヴェンにささげられた敬意を身に引き受けていた。ごく高価な華麗な大音楽会は、上流人士らに、その寛仁さを示す機会を与えていた。――時としてはまた、ベートーヴェンの交響曲《シンフォニー》を発見する機会を与えていた。俳優や軽薄才子や遊蕩《ゆうとう》者や、芸術の運命を監理するの任をフランス共和国から帯びせられた政治家、そういう連中から成る委員らが、ベートーヴェンの記念碑建設の計画を、
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