ーヴル美術館の絵画やオペラ座の壁画などをもち出していた。クイプやボードリーやパゥル・ポッテルなどを音楽に取り入れていた。傍注の助けによって、あるいはパリスの林檎《りんご》が、あるいはオランダの旅宿が、あるいは白馬の臀《しり》が、認められるのだった。それがクリストフには大きな子どもの戯れとしか思われなかった。形象にばかり興味をもち、しかも自分で絵を書くことができないので、頭に浮かぶものをすべて手帳に書き散らして、その下に太い文字で、これは人家もしくは樹木の絵であると、無邪気に書きつけてるのだった。
 耳で物を見るそれらの盲目な絵かきのほかに、また哲学者らもいた。彼らは音楽のうちに、形而《けいじ》上の問題を取り扱っていた。彼らの交響曲《シンフォニー》は、抽象的な主義の戦いであり、ある象徴もしくは宗教の解説であった。また同じく歌劇《オペラ》の中では、現在の法律的社会的問題の研究に取りかかっていた。婦人および公民の権利を宣言していた。離婚問題、実父調査、教会と国家との分離、などを平気で取り扱っていた。彼らは二派に別れていた。俗衆的象徴主義者と僧侶的象徴主義者とだった。紙屑《かみくず》屋の哲学者、売笑女工の社会学者、パン屋の予言者、漁夫の使徒、などを彼らは歌わしていた。ゲーテはすでに、「比喩《ひゆ》的情景の中にカントの思想を再現する」当時の芸術家らのことを、説いている。ところがクリストフの時代の者らは、十六分音符のうちに社会学を取り入れていた。ゾラ、ニーチェ、メーテルリンク、バレス、ジョーレス、マンデス、福音書、赤い風車[#「赤い風車」に傍点]などが、貯水池に水を給して、歌劇《オペラ》や交響曲《シンフォニー》の作者らは、そこへ思想をくみ取りにやってくるのであった。彼らのうちの多くは、ワグナーの例に心酔して、「予もまた詩人なり!」と叫んでいた。そして音楽の譜線の下に、小学生徒や頽廃《たいはい》的な小品記者のような文体で、韻文《いんぶん》や無韻文を得意然と書き並べていた。
 それらの思想家や詩人はことごとく、純粋音楽の味方であった。しかし彼らは、音楽を書くよりも音楽を語る方をいっそう好んでいた。――それでも時々書くことがあった。できあがったものは、まったく無意味な音楽だった。不幸にもそれはしばしば成功した。でもやはりまったく意味のないものだった――少なくともクリストフにとっては。
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