でしょうね。」と彼は尋ねた。
彼は戯れのつもりだったが、しかし図星をさした。
「ええ、それはもう、」と彼女は彼がびっくりしたほど真実な調子で言った、「どんなにかうれしいことですわ。こちらでは、私は息苦しい気がしますの。」
彼はこんどはなおよく彼女をながめた。彼女は軽く両手を震わせ、胸苦しいようなふうだった。しかし彼女はすぐに、今の自分の言葉のうちには、あるいは相手の気色を害するものがあるかもしれないことを、思いついた。
「あら、ごめんください、」と彼女は言った、「自分でもなんだかわからないことを申しまして。」
彼は淡白にうち笑った。
「あやまることがあるものですか。まったくおっしゃるとおりです。何もフランス人でなくっても、こちらでは息がつまりそうです。うっふ……。」
彼は空気を吸い込みながら肩をそびやかした。
しかし彼女は、そういうふうに考えをうち明けたのがきまり悪くなって、それきり口をつぐんでしまった。そのうえ彼女は隣り桟敷の人々がこちらの会話をうかがってるのに気づいていた。彼もまたそのことに気づいて腹をたてた。そして二人は話をやめた。彼は幕間《まくあい》が終わるのを待ちながら、廊下に出て行った。若い女の言葉はまだ彼の耳に響いていた。しかし彼は他のことに気を奪われていた。オフェリアの面影が彼の心を占めていた。そして次々の幕で彼はすっかりとらえられてしまった。狂乱の場面になると、愛と死とのあの哀《かな》しい歌のところになると、女優の声は人を感動せしめないではおかないような抑揚《よくよう》になり得たので、彼はまったく心転倒してしまった。子牛のように声を挙げて泣き出しそうになっている自分を、彼は感じた。そして、気弱さのしるし――(なぜなら、彼は真の芸術家たるものは決して泣いてはいけないと信じていたから)――だと思われるそのことにみずから憤り、また人に見られたくなかったので、ふいに桟敷から外に出た。廊下にも休憩室にもだれ一人いなかった。彼は心乱れながら階段を降りていって、みずから知らないで外に出た。夜の冷たい空気を吸いたかった。薄暗い寂しい通りを大跨《おおまた》に歩きたかった。いつしか運河の岸に出で、河岸の胸壁に肱《ひじ》をついて、黙々たる水をながめた。水の面には街燈の反映が闇《やみ》の中に踊っていた。彼の魂もそれに似ていた。真暗《まっくら》でおののいていた。表面に躍《おど》りたってる大喜悦のほかは、何にも見えなかった。方々の大時計が鳴った。劇場へもどって劇の終わりを聞くことは、彼にはできそうにもなかった。フォルティンブラスの勝利を見にもどれというのか? いや、彼はそれに心ひかれなかった。……なるほどみごとな勝利だろうさ! だれがそんな勝利者をうらやむものか。獰猛《どうもう》な愚かな生命のあらゆる蛮行に飽きはてた後、勝利者になって何になろうぞ。作品全部が生命にたいする恐るべき迫害である。しかしながらその中には、生命の異常なる力が沸きたっていて、悲哀は喜悦となり、苦悩は人を陶酔せしむるほどになっている……。
クリストフは、あの初対面の若い女のことはもはや気にもかけないで、家に帰っていった。彼は彼女を桟敷の中に置きざりにして、その名前さえも知らなかった。
翌朝、彼は女優に会いに、三流どころの小さな旅館へ出かけた。興行主は彼女を仲間といっしよにそこへ泊まらせ、ただ座頭《ざがしら》の女優だけを、町一流の旅館に入れていたのである。クリストフは乱雑な小さな客間に案内された。朝食の残り物が、髪の留め針や裂けたきたない楽譜の紙とともに、蓋《ふた》を開いたピアノの上にのっていた、傍《かたわ》らの室ではオフェリアが、ただ騒ぐのが面白さに、子供のように声を張り上げて歌っていた。訪問者があるのを告げられると、彼女はちょっと歌をやめて、壁の向こうまで聞こえても構わないような、快活な声で尋ねた。
「なんの用だろう? どういう名前なの?……クリストフ……クリストフそれから?……クリストフ・クラフトだって……おかしな名前だこと!」
(彼女はリ[#「リ」に傍点]やラ[#「ラ」に傍点]の音をひどく口の中でころがしながら、二、三度その名前をくり返した。)
「まるで悪口《わるくち》の言葉のようだわ……。」
(彼女こそ悪口を一つ言ったのだ。)
「若い人、それとも年寄り?……よさそうな人なの?……そんならいいわ、行ってみよう。」
彼女はまた歌いだした。
――吾《わ》が恋よりもやさしきものは世にあらじ……
歌いながら、室じゅうをかき回し、散らかった物の中にはいり込んだ鼈甲《べっこう》の留め針を、ののしりちらした。じれったがって、怒鳴りだし、獅子《しし》のように猛《たけ》りたった。クリストフにはその姿は見えなかったけれど、壁越しに彼女の身振りを一々想像して、一人で笑っていた。ついに足音が近づいてき、扉《とびら》がさっと開かれ、そしてオフェリアが現われた。
彼女はちゃんとした服装をしてはいなかった。化粧着を身体にまきつけ、広い袖《そで》の中に腕を露《あら》わにし、髪はよく梳《くしけず》ってなく、巻き毛が眼や頬《ほお》にたれ下がっていた。その美しい褐色の眼は笑い、口も笑い、頬も笑い、かわいらしい小窪《こくぼ》が頤《あご》のまん中に笑っていた。彼女は荘重な歌うような美しい声で、そんな姿で出て来たことをちょっと詫《わ》びてみた。しかし、別に詫びるわけはないことを、かえって感謝されていいことを、よく知っていた。彼女は彼を、訪問にやって来た新聞記者だと思っていた。そして、ただ自分一個の考えで来たのだと言われ、彼女を賛美してるからだと言われると、失望するどころか、非常に歓《よろこ》んだ。彼女は愛嬌《あいきょう》のいい善良な娘で、人に喜ばれるのが大好きで、またそれを隠そうともしなかった。クリストフの訪問と心酔とに、彼女はうれしくなった。――(彼女はまだ、世辞追従に毒されてはいなかった。)――彼女はその動作においても、作法においても、小さな虚栄心においても、また人に好かれる時に感ずる無邪気な喜びにおいても、少しの不自然さもなかったので、クリストフは一瞬間も窮屈を感じなかった。二人はすぐに古い友だちのような間になった。彼は拙《まず》いフランス語を少し話し、彼女は変なドイツ語をわずか話した。一時間もたつと、どんな内密な話でももち出した。彼女は少しも彼を帰らせようとは思わなかった。この強健で快活で怜悧《れいり》で感情を隠さない南欧の女は、愚かな仲間たちにとりまかれ、言葉を知らない他国にあって、生来の喜びをも覚ゆることなく、退屈でたまらなかったので、話し相手を見出したのがうれしかった。クリストフの方では、誠実に乏しいいじけた小市民らのまん中で、平民的元気に満ちた南欧の自由な女に出会ったことは、言い知れぬ幸福であった。彼はまだ、それら南欧人の不自然な性質を知らなかった。彼らはドイツ人と違って、その心の中にもってるもの全部を相手に示す――またしばしば、もっていないものをも相手に示すことがある。しかしとにかく、この女優は年が若かった、溌剌《はつらつ》としていた、思ってることを、腹蔵なく露骨に言ってのけた。清新な見方で、すべてを自由に批判した。雲霧を吹き払うあの南風が、彼女のうちにも多少感ぜられた。彼女は天分が豊かであった。教養も思慮もなかったけれど、美しいよい物ならば、それをただちに心から感ずることができて、ほんとうに感動するほどだった。そしてすぐそのあとで、にわかに大笑いをした。もとより、彼女は仇《あだ》っぽい女で、瞳《ひとみ》をよく働かせた。よく合わさっていない化粧着の下から、裸の喉《のど》をのぞかしてるのも、少しも不愉快ではなかった。彼女はクリストフの心を迷わせたかったかもしれない。しかしそれはまったく本能からであった。なんらの打算もなかった。笑い、快活に話をし、気兼ねも遠慮もなく、善良なお坊《ぼっ》ちゃんとなりお友だちとなることを、いっそう好んでいた。芝居生活の内幕や、自分のちょっとしたみじめな事柄や、仲間たちのつまらない猜疑《さいぎ》や、彼女に光らせないようにと注意してるゼザベル――(彼女は座頭の女優をきらってゼザベルと綽名《あだな》していた)――の意地悪なことなどを、彼に話してきかした。彼はドイツ人にたいする不平をうち明けた。彼女は手をたたいて面白がり、彼に調子を合わした。彼女は元来善良であって、だれの悪口をも言うつもりではなかったが、しかしやはり自然と悪口を言うのだった。だれかを揶揄《やゆ》する時には、自分の意地悪さを心ではとがめながらも、やはり南欧人の特色たる、現実的な滑稽《こっけい》な観察の才を失わなかった。彼女はそれをどうすることもできないで、うがった批評をくだすのだった。若犬のような歯並みを見せて、蒼《あお》ざめた唇《くちびる》で面自そうに笑った。化粧のために色|褪《あ》せた蒼白い顔の中には、隈《くま》のある眼が輝いていた。
二人は突然、もう一時間以上も話をしたことに気づいた。クリストフはコリーヌ――(それが彼女の芸名だった)――へ、市内を案内するために午後誘いに来ようと申し出た。彼女はその考えにたいへん喜んだ。そして二人は、昼食後すぐに会う約束をした。
約束の時間に、彼はそこへ行った。コリーヌは旅館の小さな客間にすわって、書き抜きを手にしながら声高く読んでいた。彼女は笑《え》みを含んだ眼で彼を迎え、なおやめないで文句を終わりまで読んだ。それから、安楽|椅子《いす》の自分のそばにすわるように合図をした。
「かけてちょうだい、そして口をきいちゃ厭《いや》よ。」と彼女は言った。「台詞《せりふ》を読み返してるところなの。十五分もかかれば大丈夫よ。」
彼女は急《せ》き込んでる小娘のように、ごく早くやたらに読み散らしながら、爪《つめ》の先で書き抜きをたどっていた。彼は諳誦《あんしょう》の手伝いをしてやろうと言い出した。彼女は彼に書き抜きを渡し、立ち上ってくり返した。盛んに言いよどんだり、次の文句へ進んでゆく前に、前の句の終わりを何度もくり返したりした。諳誦しながら始終頭を振っていた。髪の留め針が室の方々に落ち散った。なかなか覚えにくい言葉に出会うと、躾《しつけ》の悪い子供のように焦《じ》れったがった。時とすると、おかしな悪口やかなりひどい言葉――みずから自分に浴びせかけるごくひどい短い言葉――を発することもあった。クリストフは、才能と幼稚さとを共にそなえてる彼女に驚いた。彼女は正当な感動的な台辞回しを見出していった。しかし、全心をこめてるらしい調子の最中に、なんの意味も含まないような言葉を言うことがあった。かわいい鸚鵡《おうむ》のように文句を諳誦して、どういう意味のものであるかは少しも気にかけなかった。するともう支離滅裂なおかしなものになってしまった。彼女はいっこう平気だった。自分でも気がつくと身をねじって笑いこけた。しまいには「ちぇッ!」と言いすてて、彼の手から書き抜きを奪い取り、室の隅《すみ》に投げやり、そして言った。
「もうおしまい、休みの時間だわ!……散歩に出かけましょう。」
彼は彼女の台辞《せりふ》に多少不安を感じて、懸念《けねん》のあまり尋ねた。
「覚えたつもりですか。」
彼女は確かな様子で答えた。
「大丈夫よ。それにまた、黒坊《くろんぼ》だってついてるんだもの。」
彼女は帽子を被《かぶ》りに室へ行った。クリストフは待ちながら、ピアノの前にすわって少しばかり和音をひいた。向こうの室から彼女は叫んだ。
「あ、それはなんなの? もっとひいてちょうだい。ほんとにいいこと!」
彼女は帽子を頭に留めながら駆けて来た。彼はひきつづけた。ひいてしまっても、彼女はもっとつづけるように願った。そして、トリスタン[#「トリスタン」に傍点]の曲についても一杯のチョコレートについても同様にまき散らす、フランス婦人特有の気のきいた短い感嘆の声をたてながら、彼女はうっとりと聞き入っていた。クリストフは笑っていた。ドイツ人の大袈裟《おおげさ》な強調した感嘆の言
前へ
次へ
全53ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング