を見のがすほど彼が馬鹿だろうとは、思いつかなかったと答え返した。しかし老人は、彼女相手にぐずぐず言い合いはしなかった。一刻も猶予しないで、ふたたび階段を駆け降り、隣りの人たちが教えてくれる漠然《ばくぜん》とした方向へ、クリストフを捜しに出かけた。
 クリストフは、だれもいないし一言の言い訳も受けないのを、憤慨していた。次の汽車の時間までどうしていいかわからないので、美しく見える野原を歩き回った。なだらかな丘に囲まれてる、小さな静かな安らかな町だった。人家のまわりの庭、花の咲いた桜樹《おうじゅ》、緑の芝地、美しい樹影《こかげ》、擬古式の廃墟《はいきょ》、大理石の円柱台の上、緑の間には、昔の女王らの白い胸像、そのやさしいかわいい顔つき。町の周囲は皆、牧場と丘陵だった。花咲いた灌木《かんぼく》の中には、鶫《つぐみ》のうれしげな鳴き声が、快活な明朗なフルートの小合奏をしていた。クリストフの不機嫌《ふきげん》は間もなく消えた。彼はペーテル・シュルツを忘れてしまった。
 シュルツ老人は、通行人らに尋ねながらむなしく町中を駆け回った。町の上にそびえてる、丘の上の古城にまで上がった。悲しい心でまた降りてきた。その時、ごく遠くまできく彼の鋭い眼は、牧場の叢《くさむら》の影に横たわってる男の姿を、向こうに見出した。彼はクリストフを見知らなかった。向こうの男が彼であるかどうか、知る術《すべ》はなかった。男はこちらに背中を向け、頭を半ば草の中に埋めていた。シュルツは牧場の周囲の道をうろつきながら、胸を躍《おど》らせていた。
「彼だ……いや彼じゃない……。」
 呼びかけることもなしかねた。ふといいことを思いついた。彼はクリストフの歌曲[#「歌曲」に傍点]の最初の句を歌いだした。

[#ここから3字下げ]
起てよ、振い起てよかし……
[#ここで字下げ終わり]

 クリストフは水から出た魚のように飛び上がって、その続きを大声に歌った。うれしげにふり向いた。真赤《まっか》な顔をして、髪には草がついていた。二人はたがいに名前を呼び合って、両方から駆け寄った。シュルツは道の溝《みぞ》をまたぎ越し、クリストフは柵《さく》を飛び越した。二人は心をこめて握手をし、大声に話したり笑ったりしながら、いっしょに家へ帰ってきた。老人は自分の失策を話した。クリストフは一瞬間前では、新たにシュルツに会いに行かないで、そのまま去ってしまおうと考えていたが、すぐに老人の誠実親切な魂を感じて、彼を愛しだした。家に着くまでにはもう、二人は種々なことをたがいにうち明けていた。
 家へはいると、クンツがいた。彼はシュルツがクリストフを捜しに出かけたことを聞いて、落ち着き払って待っていたのである。牛乳入りのコーヒーが出された。しかしクリストフは、町の旅舎で朝食をしたと言った。シュルツ老人は失望した。この土地でのクリストフの最初の食事が自分の家でなされなかったことは、彼にとって真の悲しみだった。それらのつまらない事柄も、彼の愛情深い心にとっては非常に大事なことだった。クリストフはそれを見て取って、ひそかに面白がり、そしてますます彼を好きになった。彼を慰めんがために、二度朝食をしたいほど空腹だと言った。そしてそれを実際に証明した。
 不快な気持はことごとく彼の頭から去った。彼はほんとうの友人らの間にある心地がし、生き返った気がした。旅のことを、苦々《にがにが》しい事柄を、滑稽《こっけい》化して語った。休暇を得た学生のようなふうだった。シュルツは晴れやかな様子で、彼をじっと見守り、心から笑っていた。
 ひそかな糸で三人を結びつけていたところのもの、すなわちクリストフの音楽に、話はやがて転じていった。シュルツは、クリストフが自分の作品を少しひくところを聞きたくてたまらなかったが、しかしそれを頼みかねていた。クリストフは話しながら、室内を大股《おおまた》に歩いていた。彼が開いたピアノのそばを通りかかると、シュルツはその足つきをうかがった。彼がそこに立ち止まるようにと願った。クンツも同じ思いだった。二人は心を躍らせた。見ると、彼はなお話しつづけながら、機械的にピアノの腰掛にすわり、それから、その楽器へは眼もやらずに、ふと鍵《キイ》の上に手を動かした。シュルツは期待していたので、クリストフが少し琵音《アルペジオ》を奏すると、すぐにその音に心を奪われてしまった。彼はなお話しながら、和音をひきつづけた。それから、楽句全体をひいた。するともう彼は口をつぐんで、ほんとうに演奏しだした。二人の老人は、賢い狡猾《こうかつ》なうれしげな一|瞥《べつ》をかわした。
「これを知っていますか。」とクリストフは自分の歌曲[#「歌曲」に傍点]の一つをひきながら尋ねた。
「知っていますとも。」とシュルツは大喜びをして言った。
 クリ
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