フは何にも見なかった。彼は寝台に飛びのって、すぐにぐっすり寝入った。
シュルツは眠らなかった。自分の受けたあらゆる喜びや、友の出発について今から感じてるあらゆる悲しみなどを、一時に考え出していた。二人で言いかわした言葉をまた頭に浮かべていた。自分の寝台のよせかけてある壁の彼方《かなた》に、すぐ近くに、親愛なるクリストフが眠ってることを、考えていた。疲れはててがっかりしぬいていた。散歩の間に冷えて、病気が再発しかけてると感じていた。しかし彼はただ一つのことしか思ってはいなかった。
「彼が発《た》ってしまうまでもちこたえさえすれば!」
そして咳《せ》き込むと、クリストフを起こしはすまいかとびくびくしていた。彼は神にたいする感謝の念で、いっぱいになっていて、老シメオンの今や逝せ給え[#「今や逝せ給え」に傍点](訳者添、今や僕(しもべ)を安全に世を逝(さら)せ給え)という聖歌に基づいて、詩を作りはじめた。……作った詩を書くために、汗まみれになって起き上がった。そして長くテーブルにすわって、ていねいにそれを書き直し、愛情のあふれた捧呈《ほうてい》文をつけ、下部に署名をし、日付と時間とを書き入れた。それから、震えが出てまた床についたが、もう夜通し身体が温《あたた》まらなかった。
曙《あけぼの》がきた。シュルツは残り惜しい心持で、前日の曙のことを考えた。しかしそういう考えで、残ってる最後の幸福の瞬間を乱すことを、みずから責めた。翌日になったらただいま去りつつある時間を愛惜するようになるだろうと、よく知っていた。彼はこの時間を少しも無駄《むだ》に失うまいとつとめた。彼は隣室のわずかな物音にも耳を澄ました。しかしクリストフは身動きもしなかった。彼は寝た通りの場所にまだ横たわっていて、少しも身を動かしてはいなかった。六時半が鳴った。彼はまだ眠っていた。彼に汽車を乗り遅らせることは訳もないことだった。そしてきっと彼はそれを笑って済ますに違いなかった。しかし老人は小心翼々としていて、友のことを承諾も得ずに勝手にきめることはできなかった。彼はいたずらにくり返し言った。
「私のせいじゃない。私にはなんの責《せめ》もあるまい。ただ知らせないだけでいいのだ。そして彼がおりよく眼を覚《さ》まさなかったら、私はも一日彼といっしょに過ごせるのだ。」
しかしこうみずから答え返した。
「いや、私には
前へ
次へ
全264ページ中210ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング