できた。彼はそれらを考えたくなかった。しかしそれらはいつまでもそこにあった。彼はそれらを感じた。それらのことの追憶が、刺すような苦痛をもって時々彼の心を過《よぎ》った。
「ああ、神よ、神よ!」
 彼は静かな夜の中でうなった。――それから、不快な考えをすべて遠ざけた。それらを打ち消した。彼は信頼したかった、楽観したかった、人を信じたかった。そして人を信じていた。彼の幻は幾度か荒々しくこわされたことであろう!――しかしまた他の幻が浮かんできた、いつでも、いつでも……。彼は幻なしにはいられなかった。
 見知らぬクリストフは、彼の生活のうちの光の焦点となった。最初に受け取った冷淡な無愛想《ぶあいそう》な手紙は、彼に苦しみを与えたはずだった。――(おそらく実際に与えたろう。)――しかし彼はそうだと認めたくなかった。そして子供らしい喜びをさえ感じた。彼はいかにも謙譲であって、人に求むることがいかにも少なかったから、人から受けるわずかなもので、人を愛し人に感謝したいという要求を満たすに足りるのであった。クリストフに会うなどとは、望みも得ない幸福だった。今ではライン河畔まで旅するにはあまりに年老いていたし、また向こうからの訪問を願うことは、思いもつかなかったのである。
 クリストフの電報は、夕方彼が食事についてる時に到着した。彼は最初理解しかねた。知らない人からのように思われた。間違ったのでないかしら、他人あてのではないかしら、とも考えた。三度よみ返してみた。心が乱れていたし、眼鏡はよくかかっていず、ランプの光は鈍くて、文字が眼の前で踊っていた。ようやくそれとわかると、彼は心が転倒して、食事を忘れてしまった。ザロメがいくら呼びかけても無駄《むだ》だった。彼は一口も飲み下すことができなかった。いつでもかならずたたむ胸布《ナフキン》を、そのまま食事の上に放《ほう》り出した。よろめきながら立ち上がり、帽子と杖《つえ》とを取りに行き、そして出かけた。かかる幸福を得て、善良なシュルツがまっ先に考えたことは、他人にもその幸福を分かつことであり、クリストフが来るのを友人らに知らせることであった。
 彼は同じく音楽好きな二人の友をもっていて、クリストフにたいする自分の感激を伝えていた。判事のザムエル・クンツと、歯医者のオスカール・ポットペチミットとであった。後者は秀《ひい》でた歌手だった。三人の老
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