ゃいでもいたのだろう。クリストフをながめながら急に笑い出し、音高く接吻《せっぷん》し、近くの人々をもはばからなかった。それにまた近くの人々も、なんら驚いた様子をも見せなかった。

 彼は今では、いつも男女の店員らと連れだって散歩するようになった。彼らの野卑さを彼もあまり好まず、途中ではぐれようとつとめた。しかしアーダは、つむじ曲りの気質から、もう林の中に迷い込もうとしなかった。雨が降る時か、あるいは他の理由で町から出かけられない時には、彼は芝居や博物館や動物園などに彼女を連れていった。なぜなら、彼女はいつも彼といっしょなのを人に見せつけたがったから。彼女はまた、宗教上の祭式にまで彼について来てもらいたがった。しかし彼は、もはや信仰しなくなってからは、教会堂へ足を踏み入れることを欲しなかったほど、ばかばかしく誠実だった。――(他の口実を設けて、会堂のオルガニストの地位を辞してしまっていた。)――しかもまた同時に、みずから識《し》らずしてやはり宗教的だったので、アーダの申し出を不敬なことだと思わずにはいられなかった。
 彼は晩には彼女のところへ出かけていった。同じ家に住んでるミルハがいっしょにいた。ミルハは少しも恨みをいだいていないで、柔らかいやさしい手を彼に差出し、無関係なことや放縦な事柄を話し、そしてつつましく姿を隠した。この二人の女は、親友たる理由を最も失って以来、最も親友らしく振舞っていた。いつも二人いっしょにいた。アーダは何事もミルハに隠さないで、すっかりうち明けていた。ミルハはなんでも聞いていた。そしてそれを、二人とも同じくらいうれしがってるようだった。
 クリストフはこの二人の女といっしょになると、どうも気がゆったりしなかった。彼女らの友誼《ゆうぎ》、その奇怪な会話、放恣《ほうし》な行動、無遠慮な態度、とくにミルハの物の見方や話し方の無遠慮さ――(それでも彼の面前ではいくらか少なかったが、彼がいない時のこともアーダが聞かしてくれた)――それからまた、つまらない問題やかなり淫《みだ》らな問題へいつもわたってゆく、不謹慎で饒舌《じょうぜつ》な彼女らの好奇心、すべてそういう曖昧《あいまい》な多少獣的な雰囲気《ふんいき》に、彼は恐ろしく困らされた。それでもまた心をひかれた。なぜならそういう種類のことを少しも知らなかったから。その二人の小さな獣どもは、つまらないことを話し合い、とりとめもないことを語り合い、馬鹿《ばか》げた笑い方をし、うれしそうに眼を輝かしながら、淫逸《いんいつ》な話をつづけるので、そういう会話の中に出ると彼は面食《めんくら》ってしまった。そしてミルハが立ち去るとほっと安堵《あんど》するのだった。二人の女をいっしょにすると、彼には言葉のわからない外国の土地のように思われた。考えを通じ合うことができなかった。彼女らは彼の言葉には耳も傾けず、外国人たる彼を馬鹿にしていた。
 アーダと二人きりの時には、やはり違った二つの言葉を使いはしたが、それでもたがいに了解するために、二人とも少なくも努力はしていた。しかし実を言えば、彼は彼女を了解すればするほど、ますます了解していないのであった。彼女は彼が知った最初の女性だった。あの憐《あわ》れなザビーネも女性の一人ではあったが、彼は彼女を少しも知っていなかった。彼にとっては、彼女はただ心の夢だけとなっていた。しかるにアーダは、空費した時を回復させる役目となった。彼はこんどこそ女性の謎《なぞ》を解こうとつとめた――おそらくはなんらかの意義を求めようとする人々にとってしか謎ではないところの謎を。
 アーダは少しの知力もそなえていなかった。がそれはまだ些細《ささい》な欠点だった。もし彼女がそれをあきらめていたら、クリストフもそれをあきらめたろう。しかし彼女は、つまらないことにばかり頭を向けていながらも、精神的な事柄にも通じてると自負して、確信をもって万事を判断した。音楽のことを話しては、クリストフが最もよく知ってる事柄を彼に説明してやり、判定を下して頑《がん》として応じなかった。彼女を説伏しようとしても無駄《むだ》だった。彼女は万事にたいして主張と疑惑とをもっていた。やたらに気むずかしいことを言い、頑固《がんこ》で傲慢《ごうまん》であって、何物をも理解しようとはしなかった――理解することができなかった。実際何にもわからないということが、どうしても承知できなかった。もし彼女が、その欠点と美点とをもってただ生地《きじ》のままで満足していたなら、彼はさらにいかほどかよく愛してやったことだろう!
 事実彼女は、考えるということをほとんど心にかけていなかった。食べ飲み歌い踊り叫び笑い眠ることだけを、心にかけていた。幸福にしていたいと思っていた。そしてそれは、もし成功していたらきわめて結構なことだったろう。元来彼女は、幸福なるために天賦の才をもっていて、大食であり、怠惰であり、淫蕩《いんとう》であり、クリストフをいやがらせまた面白がらせる無邪気な利己心をそなえていたし、約言すれば、友だちにたいしてではないが、仕合せにもそれをもってる本人にたいして人生を愉快ならしむるところの、ほとんどあらゆる悪徳をもっていたし――(それになお、幸福な顔つきをしていたが、この幸福な顔つきは、少なくともそれがきれいである以上は、すべて近寄る人たちの上に幸福を光被するものである)――かくて生存に満足すべき多くの理由がありはしたけれど、しかし満足するだけの知力さえそなえてはいなかった。健康そうな様子をし、あふれるばかりの快活さを有し、猛烈な食欲をそなえ、清新で、陽気で、美しい丈夫なこの娘は、自分の健康を気づかっていた。馬のように大食しながら、身体の弱いことを嘆いていた。あらゆる愚痴をこぼしていた、もう歩けない、もう息がつけない、頭痛がする、足が痛む、眼が痛む、胃が痛む、心が痛む、などと。あらゆるものを恐《こわ》がり、ばかに迷信家で、どこにでも何かの前兆を認めていた。たとえば食卓では、ナイフ、十字に組合したフォーク、客の数、ひっくり返ってる塩入れなどがあって、災難を避けるために沢山の禁呪《まじない》をしなければならなかった。散歩をしてると、鳥の数を数え、それがどちらへ飛ぶかをかならず観察した。また心配そうに足下の道をうかがい、もし午前中に蜘蛛《くも》が通るのを見つけると、非常に悲しがって、引返したがった。それをむりにつづけて散歩させるには、もう正午過ぎなので前兆は凶から吉へ変ったのだと説き伏せるより外に、なんらの手段もなかった。また夢を気にしていた。彼女はいつも長々とクリストフに夢の話をした。そのちょっとした些事《さじ》を忘れても、幾時間もかかって思い出そうとした。ただ一つの事柄も彼に聞かせないではおかなかった。それはまったく荒唐|無稽《むけい》な事柄の連続であって、おかしな結婚、死人、裁縫女、王侯、滑稽《こっけい》なまた時には猥褻《わいせつ》な事柄、などが問題になっていた。彼はそれに耳を傾けなければならないし、意見を吐かなければならなかった。彼女はそれらの愚にもつかない幻影に、終日つきまとわれてることもしばしばだった。世の中は悪くできてるものだと考え、事物や人々をぶしつけにながめ、やたらに嘆息してクリストフを困らした。そして彼は、自家の陰鬱《いんうつ》な小市民たちのもとをいくら逃げ出しても、やはりここにもまた、永遠の敵たる「陰気な非ギリシャ的な憂鬱病者[#「陰気な非ギリシャ的な憂鬱病者」に傍点]」を見出したのである。
 そういう不機嫌《ふきげん》な愚痴の最中に、突然、また快活な様子が騒々しく大|袈裟《げさ》に現われてくるのであった。するともう、先刻の苦情と同じく、その快活さにも手のつけようがなかった。理由もないのにいつまでもつづくかと思われるほど大笑いをし、畑の中を駆けずり回り、狂気じみた仕業《しわざ》をし、子供のように戯れ、ばかなことをして喜び、土くれや汚《きたな》い物をかきまわし、畜類や蜘蛛《くも》や蟻《あり》や蚯蚓《みみず》などをいじくり、それをいじめ、害を加え、小鳥を猫《ねこ》に、蚯蚓を鶏に、蜘蛛を蟻に、たがいに食わせ、しかも悪心あってなすのではなく、あるいはまったく無意識的な加害の本能から、好奇心から、無為退屈な心からであった。または、倦《う》むことなき欲求をもって、くだらないことを言い、なんの意味もない言葉を何十度となく繰り返し、人をいやがらせ、苛立《いらだ》たせ、じらし、激怒させることもあった。しかも、だれかが――だれでも構わない――道に姿を現わすと、また嬌態《きょうたい》が始まった。すぐに彼女は、元気よく口をきき、笑声をたて、騒ぎたて、変な表情をし、人目を引いた。わざとらしい突飛な行動をした。クリストフは今に彼女が真面目《まじめ》らしいことを言い出すだろうと、びくびくしながら予感した。――そして、はたしていつもそのとおりだった。彼女は感傷的になった。しかも他の場合と同じく、こんどもまた法外だった。恐ろしい勢いで感情をぶちまけた。クリストフはそれに悩まされて、なぐりつけたかった。彼が彼女に何よりも最も許しがたかったことは、誠実でないということだった。誠実というのは、知力や美貌《びぼう》と同じくらいめったにない賦性で、万人にそれを要求するのは無理であるということを、彼はまだ知らなかった。彼は虚言を忍ぶことができなかった。しかもアーダは彼にひどく嘘《うそ》をついた。明らかな事実が現われていても、平気でたえず嘘をついた。彼に不快を与えた事柄を――彼の気に入った事柄をも――すぐに忘れてしまう驚くべき容易さを、その時々の調子に任して生活してる女が一般に有する忘却の容易さを、彼女はもっていた。
 そして、それにもかかわらず二人は愛し合っていた。たがいに心から愛し合っていた。アーダも愛にかけては、クリストフと同様に誠実だった。その愛は精神の同感の上に立ってはいなかったが、それでもやはり真実のものだった。下等な情熱とはなんらの共通点ももってはいなかった。青春の美しい愛であった。いかにも肉感的なものではあったが、卑俗なものではなかった。なぜならその中ではすべてが若々しかったから。率直でほとんど清廉で、快楽の燃えたつ清純さに洗われた愛だった。アーダはなかなかクリストフほど初心《うぶ》ではなかったとは言え、まだ青春の心と身体とのりっぱな特権をもっていた。その感覚の清新さは、小川のように清澄|溌溂《はつらつ》として、ほとんど純潔の感を与え、何物にも妨げられることがなかった。彼女は普通の生活においては利己的で平凡で不誠実であったが、愛のために、素朴《そぼく》に真実にほとんど善良にさえなっていた。他人のために自己を忘れることにおいて見出される喜びを、彼女は理解するほどになっていた。クリストフはその様子をうれしげにながめた。すると、彼女のために死んでも惜しくないような気がした。愛する魂はその愛のうちに、いかにおかしなしかも痛切な欺瞞《ぎまん》をもちきたすことであるか! 恋人にありがちな幻は、クリストフのうちにあっては、あらゆる芸術家に固有な幻想力によってさらに強調されていた。アーダの一つの微笑も、彼にとっては深い意義をもっていた。やさしい一言も、その心の善良さの証拠であった。彼は宇宙にあるあらゆるみごとなものを、彼女のうちにおいて愛していた。彼は彼女を、おのれの自我、おのれの魂、おのれの存在、と呼んでいた。二人はいっしょに愛情のあまり涙を流した。
 二人を結びつけてるものは、ただ快楽ばかりではなかった。追想と夢想との得も言えぬ詩趣であった。がその追想と夢想とは、彼ら二人のものだったろうか、あるいはまた、彼ら以前に愛していた人々、彼ら以前に……彼らのうちに……存在していた人々、そういう人たちのものだったろうか?……二人はたがいにそれと言わずに、おそらくはそれと知らずに、心のうちにいだいていた、林の中で出会った最初の瞬間の幻影を、いっしょに過した最初の日々と夜々との幻影を、たがいに腕のなかにいだかれ合い、身動きせず、考えも
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