たとえば、官邸へ行ってる晩だの、公衆の前で演奏してる時だのに。何か渋面をしたり、途方もないことを言ったり、大公爵の鼻を引っ張ったり、あるいは貴婦人の尻《しり》を蹴《け》ったり、そんなことを突然したくてたまらなくなった。ある晩なんかは、管弦楽を指揮しながら、公衆の前で裸体になりたい妄念《もうねん》とたたかいつづけたこともあった。その考えをしりぞけようとつとめる片側から、その考えにまた襲われた。それに負けないためには全力を尽さなければならなかった。その馬鹿げた争いを済ますと、汗にまみれ、頭が空《から》っぽになっていた。まったく狂気になっていた。ある一事をしてはいけないと考えただけで、もうその一事が、固定観念のような激しい執拗《しつよう》さでのしかかってきた。
かくて、狂わんばかりの力と空虚の中への墜落との連続のうちに、彼の生活は過ぎていった。砂漠《さばく》中の狂風だった。その風はどこから来たのか。その狂妄はなんであったか。彼の四|肢《し》と頭脳とをねじ曲げるそれらの欲望は、いかなる深淵《しんえん》から出て来たのか。狂暴な手で引き絞られた弓にも彼は似ていたが、しかもその手はこわれるまで弓を引き絞り――人に知られぬいかなる標的へ向ってか?――次にはそれを一片の枯木のように投げ捨てようとしていた。何者の餌食《えじき》と彼はなっていたのか。それらのことを彼は考究する勇気がなかった。彼は打ち負かされ恥ずかしめられたのを感じたが、自分の敗亡を正視するのを避けた。彼は疲れておりまた卑怯《ひきょう》であった。昔彼が軽蔑《けいべつ》していた人々、自分に快くない真実を見ることを欲しない人々、彼らを彼は今になって理解した。空費してる時間、投げ出してる仕事、駄目《だめ》になってる未来、そういうことをこの虚無の間にふと思い起こすと、恐ろしくて慄然《りつぜん》とした。しかし少しも反抗しなかった。彼の卑怯《ひきょう》な態度は、虚無の自棄的な肯定のうちに弁解を見出していた。水の流れに浮ぶ漂流物のように虚無のうちに身を任せることに、彼は苦《にが》い快楽を味わっていた。たたかってもなんの役にたとう? 美も善も神も生命も、いかなる種類の存在も、何もなかった。歩いていると往来の中で、にわかに地面がなくなった。土地も空気も光も彼自身も、もはやなかった。何物もなかった。頭に引きずられて前のめりになった。転倒する
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