かった。二人が顔を合せる時、今日はとか今晩はとかいう親しい言葉を、彼が親切にかけてやりさえしたら、ローザはどんなにか幸福に思ったろう。しかしクリストフの眼つきは、平素からいかにもきびしく冷やかだった。彼女はそれにぞっとした。彼は彼女に何にも不愉快なことさえ言わなかった。彼女はそういう残忍な沈黙よりも、叱責《しっせき》の方をまだ好んだであろう。
夕方、クリストフはピアノについて演奏した。なるべく物音に煩わされないように、家の一番上の狭い屋根裏の室にこもっていた。ローザは下から、それを聴《き》いて感動した。彼女は少しも教養のない粗悪な趣味をもってはいたが、音楽を好んでいた。彼女は母がそばにいる間は、室の片隅にとどまって、仕事の上にかがみ込み、それに夢中になってるらしかった。しかし彼女の魂は、上から響いてくる音律に引きつけられていた。幸いにも、アマリアが近所に用があって出かけると、ローザはすぐに飛び上り、仕事を投げすて、心を踊らせながら、屋根室の入口まで上っていった。息を凝らして、扉《とびら》に耳をあてがった。そのままじっとしていたが、ついにアマリアがもどってきた。彼女は音をたてまいと用心しながら、爪先《つまさき》立って降りていった。しかしきわめて無器用だったし、いつも急いでいたので、階段から転げ落ちそうになることがたびたびだった。それからある時は、身体を前方につき出し、頬《ほお》を錠前にくっつけて、耳を傾けていると、平均を取り失って、額を扉にぶっつけた。彼女は非常にあわてて息を切らした。ピアノの音はぴたりと止った。彼女は逃げ出すだけの力もなかった。ようやく立上ると、扉が開《あ》いた。クリストフは彼女の姿を見、怒気を含んだ一|瞥《べつ》を投げて、それから、なんとも言わずに荒々しくそばを離れ、怒って降りてゆき、外に飛び出した。食事の時になってもどって来たが、許しを願ってる彼女の悲しい眼つきにはなんらの注意も払わず、あたかも彼女がそこにいないかのようなふうをした。そして数週間、彼はまったく演奏をやめた。ローザは人知れずしきりに涙を流した。だれもそれに気づかなかった。だれも彼女に注意を向けていなかった。彼女は熱心に神に祈った。……なんのために? それは彼女にもよくわからなかった。ただ自分の悲しみをうち明けたかった。彼女はクリストフにきらわれてると信じていた。それでもやはり、彼
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