なかった。なぜなら、自分の滑稽《こっけい》なことがわかっていたから。
 しかしながら、この方面ではなんともしかたがなかったとは言え、彼女はクリストフのうちに、いっそうたやすく急所を刺し得る他の弱点を見出していた。それは彼の道徳的信念であった。クリストフはフォーゲル一家との喧嘩《けんか》にもかかわらず、青春期の熱狂にもかかわらず、本能的な貞節さを、純潔の要求を、まだ心にもっていた。彼はそれを意識してはいなかったが、しかしそれがアーダのような女を、最初は驚かしひきつけ魅惑し、次には面白がらせ、次には苛立《いらだ》たせ、次には憎悪の念をいだくまでに激させるのだった。彼女はその点を正面から攻撃しはしなかった。彼女は奸佞《かんねい》な尋ね方をした。
「あんたは私を愛してくださるの?」
「愛するとも!」
「どれくらい愛してくださるの?」
「できるかぎり。」
「それじゃ充分でないわよ………そうよ………私にはどんなことをしてくだすって?」
「なんでも望みどおりに。」
「悪いことでもしてくだすって?」
「おかしな愛し方だね。」
「それとは別問題よ。してくだすって?」
「そんな必要はありゃしない。」
「でも私がそれを望んだら?」
「お前が間違ってるんだ。」
「かもしれないわ……で、してくだすって?」
 彼は彼女を接吻《せっぷん》しようとした。しかし彼女は押しのけた。
「悪いことでもしてくださるの、どうなの?」
「厭《いや》だよ。」
 彼女は怒《おこ》って背中を向けた。
「あんたは愛していないのね。愛するとはどういうことだか知らないんだわ。」
「そうかもしれない。」と彼は人のいい様子で言った。
 情熱に駆られた瞬間には、人と同じように馬鹿なことでも、おそらくは悪いことでも、またそれ以上のことでも――わかったもんじゃない――自分はやりかねないと、彼はよく知っていた。しかし冷静にそれを自慢するのは恥ずべきことだと思い、アーダにそれを明言するのは危険だと思った。本能的に彼は、相手の女が自分を監視し、わずかな言葉をも注意してるのを、感じていた。不利な尻尾《しっぽ》を押えられるようなことをしたくなかった。
 なお幾度も、彼女は攻撃してきた。彼女は尋ねた。
「あんたが私を愛してくださるのは、ほんとに私を愛してるからなの、または私があんたを愛してるからなの?」
「お前を愛してるからだ。」
「では、私が
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