そして急いで家へはいった。入口で、彼女はも一度彼をながめた――そして姿が消えた。

 クリストフはその晩も一度彼女に会おうと考えていた。しかし、フォーゲル一家の者からは監視され、どこへ行くにも母からついて来られ、例によって旅の仕度は遅れがちだし、家から逃げ出せる隙《ひま》は一瞬間もなかった。
 翌日、彼はごく早朝に出発した。ザビーネの門口を通ると、中にはいりたくなり、その窓をたたきたかった。彼女に別れるのが非常につらかった、しかも別辞もかわさないで別れるのが――別れを告げる隙《ひま》もないほど早くから、ローザに妨げられたのであった。しかし彼は、彼女は眠ってるだろうと考え、起こしたら恨まれるだろうと考えた。それに、何を言うべき言葉があったろうか? 今となっては、旅をやめるにはあまりに時過ぎていた。そしてもし彼女が止めてくれと願ったら!……とにかく彼は、自分の力を彼女にためしてみることをも――場合によっては彼女に少し心配をかけることをも、あえて辞せないとはみずから認めかねた……。自分の出発のためにザビーネが受ける苦しみを、彼は真面目《まじめ》には考えていなかった。そしてそのわずかな間の不在は、おそらく彼女がいだいてる愛情を募らせるだろうと、彼は思っていた。
 彼は停車場へかけつけた。やはり多少の心残りを感じた。しかし汽車が動き出すとすべてを忘れてしまった。心が青春の気に満ちてるような気がした。屋根や塔の頂が太陽から薔薇《ばら》色に染められてる古い町に向って、快活に挨拶《あいさつ》をした。そして出発する者のこだわりない気持をもって、残ってる人たちに別れを告げ、もはやそのことを考えなかった。
 デュッセルドルフやケルンにいる間、彼は一日もザビーネのことを頭に浮べなかった。朝から晩まで、音楽会の試演や公演に没頭し、会食や談話に夢中になり、沢山の新奇な事物や成功の驕慢《きょうまん》な満足に気を奪われて、思い出す隙がなかった。ただ一度、出発後五日目の夜に、悪夢のあと急に眼を覚《さま》した時、眠りながら彼女[#「彼女」に傍点]のことを考えていて、その考えのために眼が覚めたことを、彼は気づいた。しかし、どうして[#「どうして」に傍点]彼女のことを考えたかは思い出せなかった。悩ましくて胸騒ぎがしていた。それは別に不思議でもなかった。その晩彼は、音楽会で演奏し、会場を出ると、夜食の宴に引
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