が、漕いではいなかった。ザビーネはクリストフの正面に艫《とも》の方にすわって、兄と話をし、クリストフをながめていた。兄との対話のために、二人は安らかに見かわすことができた。もし言葉が途切れたら二人は見かわすことができなかったろう。その嘘《うそ》の言葉は、こう言うようだった、「私が見てるのはあなたではありません。」しかし眼つきはたがいにこう言っていた、「あなたはどういう人? 私が愛してるあなたは!……どういう人だろうと、私が愛してるあなた!……」
 空は曇ってきた。霧が牧場から立ちのぼり、川は水蒸気をたて、太陽は靄《もや》の中に消えていった。ザビーネは震えながら、小さな黒い肩掛で肩と頭とを包んだ。彼女は疲れてるらしかった。舟が岸に沿うて、枝をさし伸べた柳の下にすべってゆく時には、彼女は眼を閉じた。ほっそりした顔が蒼ざめていた。唇には苦しそうな皺《しわ》が寄っていた。彼女はもう身動きもしなかった。苦しんでる――たいへん苦しんだ――死んでる、ようだった。クリストフは心がしめつけられた。彼は彼女の方に身をかがめた。彼女は眼を開き、クリストフの不安な眼が問いかけてるのを見、それに微笑《ほほえ》み返してやった。それは彼にとって一条の日の光にも等しかった。彼は小声で尋ねた。
「加減が悪いんじゃありませんか。」
 彼女は否という身振をして言った。
「寒いんですの。」
 二人の男は自分たちの外套《がいとう》を彼女にかけてやった。あたかも子供を夜具の中にくるんでやるように、その足先や脛《すね》や膝《ひざ》を包んでやった。彼女はされるままになって、眼つきで礼を言った。細かな冷たい雨が落ち始めた。二人は櫂を取って、帰りを急いだ。重々しい雲が空を隠していた。川はインキのような波をたてていた。野の中にはあちらこちらに、人家の窓に火がともった。水車場へ着いた時には、雨が激しく降りしきっていた。ザビーネは凍えていた。
 台所で盛んに火を焚《た》いて、驟雨《しゅうう》の過ぎるのを待った。しかし雨は降り募るばかりで、風まで加わった。町へ帰るには馬車で三里ほど行かなければならなかった。粉屋は、こんな天気にはザビーネを帰らせられないと言った。そして彼ら二人に、その農家で一夜を明かしてくれと言い出した。クリストフは承諾するのに躊躇《ちゅうちょ》した。彼はザビーネの眼つきに相談しかけた。しかしザビーネの眼は炉
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