うもどって来ないのではないかと気をもみ始めた。家の中の物音や、眠ろうとしない小娘の笑声などを、彼は窺《うかが》った。ザビーネが店の入口に現われない前から、その衣《きぬ》ずれの音を聞き分けた。彼女が出て来ると、彼は眼をそらして、いっそう元気な声で母に話しかけた。時とすると、ザビーネからながめられてる気がした。彼の方でもまたそっと流し目に見やった。しかしかつて二人の眼は出会わなかった。
 子供が仲介の役を勤めた。彼女は他の子供らとともに往来を走り回った。足の間に顔をつき込んで眠ってるおとなしい犬を、皆でからかっては面白がっていた。犬は赤い眼を少し開いて、しまいには気を悪くしたらしい唸《うな》り声を発した。すると子供らは、怖《こわ》さと面白さとに声をたてながら四方へ逃げ散った。娘は金切声を出して、あたかも追っかけられてるように後ろを見い見い、やさしく笑っていたルイザの膝《ひざ》へ駆け寄ってすがりついた。ルイザは娘を引止めて種々尋ねだした。それからザビーネとの間に話が始った。クリストフは少しも口を出さなかった。彼はザビーネに話しかけなかった。ザビーネも彼に話しかけなかった。暗黙の習慣から、二人はたがいに知らないふうをした。しかし彼は自分を通りこしてかわされてる話の一語をも聞きもらさなかった。ルイザには彼のその無言が反感を含んでるもののように思われた。ザビーネの方はそうは判断しなかった。しかし彼女は彼に気がひけて、多少返辞にまごついた。すると家の中へはいる口実を見つけるのであった。
 一週間の間、ルイザは風邪《かぜ》をひいて室にこもった。クリストフとザビーネとは二人きりだった。最初の晩は、二人とも恐《こわ》がっていた。ザビーネはてれ隠しに、娘を膝に抱き上げて、やたらに接吻《せっぷん》しつづけた。クリストフは困って、向うの様子を知らないふうをつづけたものかどうか迷った。変なぐあいになってきた。二人はまだ言葉をかわしたことはなかったが、ルイザのおかげですっかり知り合いになっていた。彼は一、二の文句を喉《のど》から出そうとした。しかしその声は中途でつかえてしまった。すると娘が、こんどもまた二人を当惑から救ってくれた。娘は隠れん坊をしながら、クリストフの椅子《いす》のまわりを回った。クリストフはその途中をとらえて、抱いてやった。彼は元来あまり子供好きでなかったが、その娘を抱きしめると
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