に向いていた。その日は冷たい小雨が降っていた。暖炉には盛んな火が燃えていた。霧に包まれた木立の濡れた姿が窓越しにほの見えていたが、その窓のそばに、二人の婦人はすわっていた。ケリッヒ夫人は膝《ひざ》に編物をのせ、娘は膝に書物をひらいて読んでいた。そこへクリストフははいって行った。二人は彼の姿を見て、ちらと人の悪い眼配せをした。
「あのことを知ってるんだな、」とクリストフは当惑しながら考えた。
 彼は一生懸命で無格好なお辞儀をした。
 ケリッヒ夫人は快活な微笑を浮べて、彼に手を差出した。
「今日は。」と彼女は言った。「お目にかかって嬉しゅう存じます。音楽会であなたの演奏をお聞きしてから、それがどんなに楽しかったか申上げたいと思っておりましたの。そしてそれを申上げるには、あなたをお招きするほかに道がなかったのですもの。そういうことをしましたのを、お許しくださいましょうね。」
 それらの親切で平凡な言葉のうちには、皮肉な鉾先《ほこきき》が少し隠されてはいたけれども、たいへん慇懃《いんぎん》な調子がこもっていたので、クリストフは安堵《あんど》の念を覚えた。
「あのことを知らないんだな、」と彼はほっとして考えた。
 ケリッヒ夫人は娘をさし示した。娘は書物を閉じて、クリストフをもの珍しそうに眺めていた。
「娘のミンナでございます、」と彼女は言った、「たいへんお目にかかりたがっていました。」
「でもお母様、」とミンナは言った、「初めてお目にかかったんではありませんわ。」
 そして彼女は放笑《ふきだ》した。
「あのことを知られたんだな、」とクリストフはがっかりして考えた。
「ほんとに、」ケリッヒ夫人も笑いながら言った、「私どもが着きました日に、お訪ねくださいましたね。」
 その言葉をきいて、娘はますます笑った。そしてクリストフがいかにもものあわれな様子をしたので、ミンナはそれを見ると、なお激しく笑った。まるで狂人笑いだった。あまり笑って涙を流していた。ケリッヒ夫人はそれをやめさせようとしたが、自分でも笑いを押えることができなかった。クリストフは当惑していたが、それでも笑いに感染してしまった。彼女らの上|機嫌《きげん》は押えることのできないもので、それを怒るわけにはゆかなかった。しかしミンナが息をつきながら、壁の上でいったい何をしていたのかと彼に尋ねた時、彼はまったく度《ど》を失ってしまった。彼女は彼の困惑を面白がった。
 彼はすっかりまごついて口ごもった。ケリッヒ夫人は彼を助けて、お茶を出しながら話頭を転じてくれた。
 夫人は親しげに日常のことを彼に尋ねた。しかし彼は心が落着いていなかった。どうすわっていいかもわからないし、引っくり返りそうな茶碗《ちゃわん》をどうもっていいかもわからなかった。水や牛乳や砂糖や菓子を出されるたびごとに、急いで立ち上がって、丁寧にお辞儀をしなければならないような気がした。しかも、フロックやカラーや襟飾りなどの中に、しめつけられ堅くなって、甲羅《こうら》の中にでもはいったようで、右にも左にもふり向くだけの元気がなく、また実際ふり向くことができず、ケリッヒ夫人のやたらな質問や、その繁多な作法に、すっかりおびえてしまい、ミンナの視線が、自分の顔立や手や動作や着物に、じっと注がれてるのを感じて、すくんでしまっていた。さらに彼女らは――ケリッヒ夫人はそのくだくだしい言葉で――ミンナは面白半分に媚《こび》を含んだ流し目を使って――彼を気楽にさせようとしていっそう彼をどぎまぎさせた。
 ついに彼女らは、お辞儀と単語をしか彼から引出しえないので、諦《あきら》めてしまった。ケリッヒ夫人は一人で会話を引受けていたが、それにも倦《あ》きて、ピアノについてくれとたのんだ。彼は音楽会の聴衆にたいするよりもいっそうはにかみながら、モーツァルトのアダジオをひいた。しかし彼のはにかみや、二人の婦人のそばで彼の心が感じ始めていた不安や、彼の胸を満して彼を同時に嬉《うれ》しくまた悲しくなしていた純朴な情緒などは、その曲に含まれてる情愛と初心《うぶ》な羞恥《しゅうち》とに調子を合わして、その曲に青春の魅力を添えた。ケリッヒ夫人は心を動かされた。社交界の人々にありがちな誇張した賛辞で、感動した由《よし》を述べた。それでも彼女は、不真面目《ふまじめ》に言ってるのではなかった。そしてその過度の賞賛も、やさしい婦人の口から出ると快いものであった。人の悪いミンナは黙っていた。その少年を、口をきく時にはあんなにへまであるが、かくも雄弁な指をもってるその少年を、驚いて眺めていた。クリストフは彼女らの好感を感じて、元気になってきた。彼はなおひきつづけた。それから、半ばミンナの方へふり向いて、きまり悪げな微笑を浮べ、眼を伏せたまま、おずおず言った。
「あの壁の上で、こん
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