まった。彼女は彼の困惑を面白がった。
彼はすっかりまごついて口ごもった。ケリッヒ夫人は彼を助けて、お茶を出しながら話頭を転じてくれた。
夫人は親しげに日常のことを彼に尋ねた。しかし彼は心が落着いていなかった。どうすわっていいかもわからないし、引っくり返りそうな茶碗《ちゃわん》をどうもっていいかもわからなかった。水や牛乳や砂糖や菓子を出されるたびごとに、急いで立ち上がって、丁寧にお辞儀をしなければならないような気がした。しかも、フロックやカラーや襟飾りなどの中に、しめつけられ堅くなって、甲羅《こうら》の中にでもはいったようで、右にも左にもふり向くだけの元気がなく、また実際ふり向くことができず、ケリッヒ夫人のやたらな質問や、その繁多な作法に、すっかりおびえてしまい、ミンナの視線が、自分の顔立や手や動作や着物に、じっと注がれてるのを感じて、すくんでしまっていた。さらに彼女らは――ケリッヒ夫人はそのくだくだしい言葉で――ミンナは面白半分に媚《こび》を含んだ流し目を使って――彼を気楽にさせようとしていっそう彼をどぎまぎさせた。
ついに彼女らは、お辞儀と単語をしか彼から引出しえないので、諦《あきら》めてしまった。ケリッヒ夫人は一人で会話を引受けていたが、それにも倦《あ》きて、ピアノについてくれとたのんだ。彼は音楽会の聴衆にたいするよりもいっそうはにかみながら、モーツァルトのアダジオをひいた。しかし彼のはにかみや、二人の婦人のそばで彼の心が感じ始めていた不安や、彼の胸を満して彼を同時に嬉《うれ》しくまた悲しくなしていた純朴な情緒などは、その曲に含まれてる情愛と初心《うぶ》な羞恥《しゅうち》とに調子を合わして、その曲に青春の魅力を添えた。ケリッヒ夫人は心を動かされた。社交界の人々にありがちな誇張した賛辞で、感動した由《よし》を述べた。それでも彼女は、不真面目《ふまじめ》に言ってるのではなかった。そしてその過度の賞賛も、やさしい婦人の口から出ると快いものであった。人の悪いミンナは黙っていた。その少年を、口をきく時にはあんなにへまであるが、かくも雄弁な指をもってるその少年を、驚いて眺めていた。クリストフは彼女らの好感を感じて、元気になってきた。彼はなおひきつづけた。それから、半ばミンナの方へふり向いて、きまり悪げな微笑を浮べ、眼を伏せたまま、おずおず言った。
「あの壁の上で、こん
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