それから彼は、ポケットに忍ばしておいたいくつかの菓子をそっとくれた後、恥ずかしい思いをしたかのように、もう一言もいわないでひそかに逃げていった。
 それがクリストフには嬉《うれ》しかった。しかし彼は一日の種々な激情にがっかりしていたので、祖父からもらったうまい物に手をつけるだけの元気もなかった。彼はすっかり疲れぬいていた。ほとんどすぐに眠ってしまった。
 彼の眠りは不整だった。電気を放つように神経がにわかにゆるんで、身体が震えた。荒々しい音楽が夢の中までつきまとってきた。夜中に眼をさました。音楽会で聞いたベートーヴェンの序楽が、耳に鳴り響いていた。序曲のあえぐような息使いで、室の中がいっぱいになってきた。彼は寝床の上に起き上がり、眼をこすりながら、自分はまだ眠ってるのかどうか考えた。……いや、眠ってるのではなかった。彼はその序曲をはっきり聞き分けた。憤怒の喚《わめ》きを、猛りたった吠声《ほえごえ》を、はっきり聞き分けた。胸の中に躍りたつ心臓の鼓動を、騒がしい血液の音を、耳に聞いた。荒れ狂う風の打撃を、顔に感じた。その狂風は、あるいは吹きつのって吠えたて、あるいは強大な意力にくじかれて突
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