からの上等なボンボン一箱とを、もって来た。どちらの贈物も、クリストフをたいへん喜ばした。どちらが余計|嬉《うれ》しいかもわからなかった。しかし彼は嬉しさを自認したくなかったほどひどく機嫌《きげん》を損じていた。横目でボンボンの方をにらみながら、やはりふくれ顔をしていた。自分の信任を裏切った人から進物を受けていいかどうか迷っていた。そしてついに我《が》を折りかけた時、父は即座に彼を机につかして、口移しにお礼の手紙を書き取らせようとした。それまでするとはあまりのことだった。その一日の興奮のせいか、あるいはまた、メルキオルの望みどおりに、「殿下の小さき僕《クネヒト》にして音楽家《ムージクス》……」という語で手紙を始めることを、本能的に恥しく思ったせいか、彼はぼろぼろ涙を流して、どうにも仕方がなかった。使の者はぶつぶつ言いながら待っていた。メルキオルが手紙を書かなければならなかった。しかしクリストフを勘弁してやったわけではなかった。さらに悪いことには、子供は時計を落して壊《こわ》した。小言の嵐《あらし》が降りかかった。メルキオルは彼に食後の菓子をやらないと叫んだ。クリストフは腹だちまぎれに、それは望むところだと言った。彼を罰するためにルイザは、まずボンボンを取上げてしまうと言い出した。クリストフは猛《たけ》りたって、彼女にその権利はないと言い、その箱は自分一人のものでだれのでもないと言い、取上げさせるものかと言った。彼は平手で打たれ、かっとなって、母の手から箱をもぎ取り、それを床《ゆか》にたたきつけ、上から踏みにじった。彼は鞭《むち》打たれ、寝室に連れ込まれ、着物をぬがせられ、寝床に寝かされてしまった。
 その晩彼は、家の者が友人らといっしょにりっぱな晩餐《ばんさん》をしてる音を聞いた。それは音楽会のために一週間も前から用意されたものだった。彼は枕《まくら》の上で、そういう不正な仕打にたいして腹だたしくてたまらなかった。他の人たちは声高《こわだか》に談笑して、杯を突き合していた。子供は疲れてるのだと客には披露されたので、だれも彼のことを気にかけてくれる者はなかった。ただ、食事の後に、客が散りかけた時、引きずるような足音が彼の室に忍び込んできた。そしてジャン・ミシェル老人が、彼の寝床を覗《のぞ》き込み、彼を感きわまって抱擁しながら、「かわいいクリストフ!……」と言ってくれた。それから彼は、ポケットに忍ばしておいたいくつかの菓子をそっとくれた後、恥ずかしい思いをしたかのように、もう一言もいわないでひそかに逃げていった。
 それがクリストフには嬉《うれ》しかった。しかし彼は一日の種々な激情にがっかりしていたので、祖父からもらったうまい物に手をつけるだけの元気もなかった。彼はすっかり疲れぬいていた。ほとんどすぐに眠ってしまった。
 彼の眠りは不整だった。電気を放つように神経がにわかにゆるんで、身体が震えた。荒々しい音楽が夢の中までつきまとってきた。夜中に眼をさました。音楽会で聞いたベートーヴェンの序楽が、耳に鳴り響いていた。序曲のあえぐような息使いで、室の中がいっぱいになってきた。彼は寝床の上に起き上がり、眼をこすりながら、自分はまだ眠ってるのかどうか考えた。……いや、眠ってるのではなかった。彼はその序曲をはっきり聞き分けた。憤怒の喚《わめ》きを、猛りたった吠声《ほえごえ》を、はっきり聞き分けた。胸の中に躍りたつ心臓の鼓動を、騒がしい血液の音を、耳に聞いた。荒れ狂う風の打撃を、顔に感じた。その狂風は、あるいは吹きつのって吠えたて、あるいは強大な意力にくじかれて突然やんだ。その巨大な魂は、彼のうちにはいり込み、彼の四|肢《し》や魂を伸長させて、非常な大きさになした。彼は世界の上を歩いていた。彼は大きな山であって、身内には暴風が荒れていた。憤激の嵐! 苦悩の嵐!……ああなんという苦悩ぞ! しかしそれはなんでもなかった。彼はいかにも強い心地がしていた。……苦しめ! もっと苦しめ!……ああ、強いことはなんといいことだろう! 強くて苦しむことは、なんといいことだろう!……
 彼は笑った。その笑声は夜の静寂のうちに響きわたった。父は眼をさまして叫んだ。
「だれだ?」
 母はささやいた。
「しッ! 子供が夢を見てるんです。」
 三人とも黙った。彼らの周囲のすべても黙った。音楽は消えた。そして聞こえるものは、室の中に眠ってる人々の平らな寝息ばかりだった。それは皆、眩《めくら》むばかりの力で「闇夜」の中を運ばれてゆく脆《もろ》い小舟の上に、相並んで結びつけられてる悲惨の仲間であった。
[#改ページ]
[#左右中央]

いかなる日もクリストフの顔を眺めよ、

その日汝は悪《あ》しき死を死せざるべし。



底本:「ジャン・クリストフ(一)」岩波文庫、岩波書店
 
前へ 次へ
全56ページ中55ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング