が、一生の河の流れから現われ始める。最初は、眼にもとまらぬ狭い小島で、水面とすれすれになってる巌《いわ》である。それらのものの周囲には、夜が明けゆく薄ら明りの中に、静かに大きい水脈がずっとひろがってゆく。それからこんどは、金色の日の光を浴びた新しい小島が現われる。
 魂の深淵《しんえん》から、不思議に明確な種々の形が湧き出てくる。単調な力強い波動をなしながら、永遠に同じ姿でくり返される無辺際の日の中に、あるいは歓《よろこ》びの顔をしあるいは悲しみの顔をして、たがいに手をつなぎ合してる幾多の日の丸い群が、浮び出してくる。しかしその鎖の鐶《かん》はたえず切れて、思い出は週や月……をまたぎ越してたがいにつながり合う。
 河……鐘……。思い出の届くかぎり遠くに――時の遠い曠野《こうや》の中に、生涯のいかなる時代にもせよ――それらの奥深い親しい声は、常に歌っている……。
 夜――うとうとと彼が眠る夜……。蒼《あお》ざめた明るみが窓ガラスをほの白く染めている……。河は音をたてている。その声は、寂寞の中に力強く高まってくる。あらゆる存在の上に働きかける。あるいはそれらのものの眠りを和らげ、また河波の響きのままにみずからもうとうとしてるかと思われる。あるいは噛《か》みつこうとて狂い回ってる野獣のように、いらだち咆哮《ほうこう》する。その怒号が静まると、こんどは限りなくやさしい囁《ささや》き、銀の音色、澄み切った鈴の音のようなもの、子供の笑い声のようなもの、やさしい歌声、踊り舞う音楽。決して眠ることのない大いなる母性の声! その声は子供を揺《ゆ》する、彼より以前に存在したあらゆる時代の人々を、その生から死に至るまで、幾世紀の間も揺すってやったがように。そして子供の思想の中にはいり込み、その夢の中に沁《し》み込み、澱《よど》みなき諧調《かいちょう》のマントで彼をくるんでやる。やがて彼がラインの河水に浴する水のほとりの小さな墓地に横たわる時も、そのマントはなお彼をくるんでくれるであろう……。
 鐘の音……。もはや曙《あけぼの》! 鐘の音は、憂わしげに、多少悲しげに、親しく、静かに、たがいに響き合う。そのゆるやかな声音につれて浮かび上がってくる、夢の群が、過去の様々の夢が、消え失せた人々の慾望や希望や悔恨が。子供はそれらの人々を少しも知らなかったけれども、それでもなお昔は彼らにほかならなかった、なぜなら、彼は彼らのうちに存在していたから、また彼らは彼のうちに甦《よみがえ》ってきているから。幾世紀もの思い出が、今鐘の奏する音楽の中に震えている。数多《あまた》の悲しみと数多の歓び!――そして、室の奥からでも、その鐘の音を聞いていると、軽い空気の中を流れゆく美しい音波や、自由な鳥や、風の温かい息吹《いぶ》きなどが、すぐ眼の前を通りすぎるがように思われる。青い空の一部が窓に微笑《ほほえ》みかけている。一条の日の光が、窓掛から滑り込んで寝床の上に落ちている。子供が見慣れた小さな世界、毎朝眼を覚しながら寝床から眺めるすべてのもの、自分のものにしようとして、多くの努力を払って、それと知り始め名づけ始めたすべてのもの――彼の王国が輝き出す。皆が食事をするテーブル、彼が隠れて遊ぶ戸棚《とだな》、彼がはい回る菱《ひし》形の床石《ゆかいし》、おかしな話や恐ろしい話を彼にしてくれる種々な皺《しわ》のある壁紙、彼だけにしか分らない片言《かたこと》をしゃべる掛時計。なんとたくさんのものが室の中にあることだろう! 彼はそれらのすべてを知りつくしてはいない。毎日彼は、自分に属してるその宇宙に探険に出かける――すべてが彼のものである。――一つとしてつまらないものはない。一人の人間も一匹の蠅《はえ》も、すべてが同じ価値をもっている。猫《ねこ》、火、テーブル、一筋の光の中に舞い立ってる細かな埃《ほこり》、皆同じ価に生きている。室は一つの国である。一日は一つの生涯である。そういう広漠たる中において、どうしておのれを認められよう? 世界はかくも大きい! 自分の姿が見分けられない。そして周囲にたえず渦《うず》巻いている。それらの顔、身振り、運動、音響……。子供は疲れてくる。眼は閉じて、彼は眠ってゆく。快い眠り、深い眠り、身を置くに好ましいところなら、母親の膝《ひざ》の上でもテーブルの下でも、どこであろうとまたいつであろうと、彼は突然それにとらえられる……。あたりは快い、自分自身も快い……。
 それら最初の日々《にちにち》は、大きな雲の移りゆく影を宿して風に吹かるる麦畑のように、子供の頭の中に騒々しい音をたてる……。

 影は逃げ去って、太陽がのぼってくる。クリストフは一日の迷宮の中に、自分の道を見出し始める。
 朝……。両親は眠っている。彼は自分の小さな寝床に仰向《あおむけ》に寝ている。彼は天
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