やってみた。どうしても先刻の節《ふし》が思い出せなかった。でも祖父から注意されてるのに得意になって、自分の美しい声をほめてもらいたく思いながら、歌劇《オペラ》のむずかしい歌を自己流に歌った。しかし老人が求めてるのはそんなものではなかった。ジャン・ミシェルは口をつぐんで、もう彼に取り合わない様子をした。それでも、子供が隣りの室で一人で遊んでる間、室の扉を半ば開け放したままにしておいた。
 数日後、クリストフは自分のまわりに椅子《いす》を丸く並べて、芝居の断片的な記憶でこしらえ上げた音楽劇を演じていた。真面目《まじめ》くさった様子で、芝居で見たとおりにメヌエットの節《ふし》に合して、テーブルの上に掛かってるベートーヴェンの肖像へ向い、足取りや敬礼をやっていた。そして足先で回転をしてふり向くと、こちらを眺めてる祖父の頭が、半開きの扉から見えた。彼は祖父に笑われてると思った。たいへん極り悪くなって、ぴたりとよした。そして窓のところへ走って行き、窓ガラスに顔を押しつけて、何か夢中に眺めてるようなふうを装った。しかし老人はなんとも言わなかった。彼の方へやって来て抱擁《ほうよう》してくれた。クリストフは老人が満足しているのをよく見てとった。彼の小さな自尊心は、そういう好意を受けると動かないではおれなかった。彼はかなり機敏だったので、自分がほめられたのをさとった。しかし、祖父は自分のうちの何をいちばんほめたのか、それがよくわからなかった。戯曲家としての才か、音楽家としての才か、歌手としての才か、あるいは舞踏者としての才か。彼は最後のものと思いたかった、なぜならそれを尊重していたから。
 それから一週間たって、彼がすっかり忘れてしまった時になって、祖父は彼に見せるものがあると変な様子で言った。そして机をあけて、中から一冊の楽譜を取出し、それをピアノの譜面台にのせ、弾《ひ》いてごらんと子供に言った。クリストフはたいへん困ったが、どうかこうか読み解いた。その帳面は、老人の太い字体でとくに注意して書かれたものだった。冒頭は輪や花形で飾ってあった。――やがて、クリストフのそばにすわってページをめくってやってた祖父は、それがなんの音楽であるか尋ねた。クリストフは演奏にあまり夢中になっていて、何をひいてるやらわからなかったので、知らないと答えた。
「気をつけてごらん。それがわからないかね。」
 そうだ、確かに知ってると彼は思った。しかしどこで聞いたのかわからなかった。……祖父は笑っていた。
「考えてごらん。」
 クリストフは頭を振った。
「わからないよ。」
 ほんとうをいえば思い当たることがあった。どうもその節《ふし》は……という気がした。だが躊躇《ちゅうちょ》された……そうだと言いたくなかった。
「お祖父《じい》さん、わからないよ。」
 彼は顔を赤くしていた。
「馬鹿な子だね。自分のだということがわからないのかい。」
 彼は確かにそうだとは思っていた。しかしそうはっきり言われるのを聞くとはっとした。
「ああ、お祖父《じい》さん!……」
 老人は顔を輝かしながら、彼にその音譜を説明してやった。
「それは詠唱曲《アリア》だ。火曜日にお前が床の上に転《ころ》がって歌っていたものだ。――行進曲《マーチ》。先週、も一度やってごらんと言ってもお前が思い出せなかったものだ。――メヌエット。肱掛椅子《ひじかけいす》の前で踊っていたものだ。……ご覧。」
 表紙には、みごとなゴジック字体で書いてあった。
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少年の快楽――詠唱曲《アリア》、メヌエット、円舞曲《ワルツ》、および、行進曲《マーチ》。――ジャン・クリストフ・クラフト作品※[#ローマ数字1、1−13−21]。
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 クリストフは眩《まぶ》しかった。自分の名、そのりっぱな表題、その大きな帳面、自分の作品、今それを見ようとは!……彼はまだ口ごもっていた。
「ああ、お祖父さん! お祖父さん!……」
 老人は彼を引寄せた。クリストフはその膝《ひざ》の上に身を投げ、その胸の中に顔を隠した。彼は嬉《うれ》しさに真赤になっていた。老人は、彼よりもなおいっそう嬉しかったが、わざと平気を装った調子で――感動しかかってることにみずから気づいていたから――言った。
「もちろん私が伴奏を加えたし、また歌のキャラクテールに和声《ハーモニー》を入れておいた。それから……(彼は咳《せき》をした)……それから、メヌエットにトリオを加えた。なぜなら……なぜなら、それが習慣だから……それに……とにかく、悪くなったとは思わないよ。」
 彼はその曲をひいた。――クリストフは祖父と共作したことがたいへん得意だった。
「では、お祖父《じい》さん、あなたの名前も入れなけりゃいけないよ。」
「それには及ばないさ。お前より
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