をくり返してみた。些細《ささい》なことまで思い出した。素足の娘がまた眼の前に現われた。うとうとしかけると、音楽の一節が耳に響いて、管弦楽がそこに奏されてるかと思うほどはっきり聞えてきた。彼はぞっと身を震わした。頭が酔わされて、枕《まくら》の上に起き上がった。そして考えた。
「僕もいつかああいうものを書いてやろう。ああ、いつになったらそれができるかしら。」
 その時以来、彼はもはや一つの願いしかもたなかった。また芝居に行くことだった。そして勉強の褒美《ほうび》に芝居へ行かしてやると言われたので、いっそう熱心に勉強を始めた。彼はもう芝居のことしか考えていなかった。一週間の半分はこの前の芝居のことを考え、他の半分は次の芝居のことを考えた。病気になって芝居へ行けなくなりはすまいかとびくびくしていた。心配のあまり三、四の病気の徴候を感ずることもしばしばだった。その日になると、食事もろくろくできず、心配ごとでもあるかのようにいらいらして、何十遍となく時計を見に行き、いつまでも日が暮れそうにないような気がし、ついには、もう我慢がしきれなくなり、席がなくなるかもしれないと気遣《きづか》って、開場の一時間も前から出かけていった。そしてがらんとしてる広間へ一番にはいって行ったので、気が揉《も》めだした。観客が十分はいらないので、役者たちは芝居をよして席料を返すことにしたことも、二、三度あったと、彼は祖父から聞いていた。彼は客がやって来るのを待受けて、その数を数え、一人で考えていた。「二十三、二十四、二十五……ああ、まだ十分でない……いつまでも十分そろわないのではないかしら?」そして桟敷《さじき》や奏楽席にある著名な人がはいって来るのを見ると、心がいくらか軽くなった。彼は考えた。「あんな人なら追い返しはすまい。きっとあの人のために芝居をやるだろう。」――しかしそれが確かかどうかはわからなかった。ようやくほっと安心するのは、楽手たちが席についてからであった。それでもまだ彼は、幕が上がって、ある晩のように、出物《だしもの》を変えると述べられはすまいかと、最後の瞬間まで心配していた。小さな眼をきょろつかして、バスひきの譜面台を覗《のぞ》き込んでは、楽譜の表題が待ち受けてる曲のそれであるかどうか見ようとした。よく見た後でも、一、二分たつとまた、見違いをしたのではないか確かめるために覗いた……。楽長がまだ席についていなかった。きっと病気かもしれなかった……。幕の向うで人々が動き回っていた。話声や忙しい足音が聞えていた。何か起こったのではないかしら、思わぬ不幸がわいてきたのではないかしら……。また静かになった。楽長が自分の位置についた。すっかり準備が整ったらしかった……。でもまだ始まらない! いったいどうしたんだろう。――彼は待遠しくてじりじりしていた。――ついに合図の柝《き》の音が響いた。彼は胸がどきどきした。管弦楽は序曲を奏しだした。そしてクリストフは数時間の間、深い幸福のうちに浸った。その幸福を煩わすものはただ、もうおしまいになりはすまいかという考えばかりだった。

 それからしばらくして、音楽上の一事件がクリストフの考えを刺激した。彼を驚嘆せしめた最初の歌劇《オペラ》の作者たるフランソア・マリー・ハスレルが、やって来ることになった。そして自作の音楽会を指揮することになった。町じゅうの者が興奮した。この若い楽匠は、ドイツで激しい議論の種となっていた。そして半月ほどの間は、町じゅう彼の噂《うわさ》でもちきった。いよいよ彼が到着するとまた特別だった。メルキオルの友人やジャン・ミシェル老人の友人らは、たえず消息をもたらしてきた。この音楽家の習慣や風変わりの点について、彼らは種々な馬鹿げた噂を伝えていった。子供は熱心な注意を傾けてそれらの話を一々聞いていた。えらい人がやって来ている、この町にいる、自分と同じ空気を呼吸している。同じ舗石を踏んでいる、とそういう考えが、彼を無言の感激のうちに投げ込んでしまった。彼はもはや、その人に会いたいという希望ばかりに生きていた。
 ハスレルは大公爵から歓待を申出られて、その宮邸に足を止めていた。彼は稽古《けいこ》の指図をするために劇場へ行くほか、ほとんど外出しなかった。クリストフはその劇場へはいることを許されなかった。またハスレルはごく無精だったので、いつも大公爵の馬車で往来していた。でクリストフには、彼をよくみる機会がなかなかなかった。ただ一度通り道で、馬車の奥にその毛皮の外套《がいとう》を見かけることができたばかりだった。しかしそれだけのことにも、街路を待ち受けていて野次馬の中の第一列を占め、そこから押し出されないようにと、左右に激しく拳固《げんこ》を振り回しながら、数時間費したのだった。また彼は、楽匠の室だと教えられた宮
前へ 次へ
全56ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング