と。クリストフは[#「クリストフは」は底本では「クリストスは」]祖父から大人並に話しかけられるのを感謝していて、その質朴《しつぼく》な言葉に内心動かされた。彼の子供らしい堅忍と生まれながらの傲慢《ごうまん》とは、その言葉をよく受けいれた。
しかしいかなる議論よりも、ある音楽的な情緒についての深い記憶の方がより強く、彼がいたずらに反抗せんと試みていたその厭《いや》な芸術に、一生涯彼を知らず知らずのうちに結びつけ、彼を奉仕せしめた。
ドイツの風習として、この町にも一つの劇場があって、歌劇《オペラ》、喜歌劇《オペラコミック》、軽歌劇《オペレット》、正劇《ドラマ》、喜劇《コメディー》、俗謡劇《ヴォードヴィル》、その他およそ上演できるものならいかなる種類のものもいかなる体裁のものも皆演ぜられていた。開演は一週に三度で、晩の六時から九時までだった。ジャン・ミシェル老人は一度も見物を欠かしたことがなく、どの出物《だしもの》にたいしても同じ興味を示していた。一度孫をいっしょに連れてってやった。数日前から彼にその劇の内容を長々と語ってきかした。クリストフにはそれが少しも了解できなかった。しかし恐ろしいことが起こるということを感じた。そして見たくてたまらなくなりながらも、たいへん恐《こわ》がっていた。暴風雨が起こることを知っていて、雷に打たれはしないかを恐れていた。戦《いくさ》があることを知っていて、自分も殺されはすまいかとびくびくしていた。前日、寝床の中で、彼はほんとうに苦しんだ。開演の日になると、祖父が何かさしつかえで来られなくなればいいがと願いたいくらいだった。しかし時間が迫ってくるのに祖父がやって来ないと、非常に悲しくなりだして、たえず窓から覗《のぞ》いた。ついに老人はやって来、二人はいっしょに出かけた。彼は胸がどきどきした。舌が乾ききって、一言も物をいうことができなかった。
彼らは家でしばしば話の種になってるその不思議な殿堂に到着した。入口でジャン・ミシェルはいく人もの知人に出会った。子供は彼にはぐれるのを非常に恐れて、強くその手にすがりついていた。そしてこんな場合にどうして皆が平然と話したり笑ったりしていられるか、少しもわからなかった。
祖父は管弦楽《オーケストラ》の後ろの第一列の定席についた。彼は手摺《てすり》によりかかって、すぐにバスひきとのべつに話をやり出した。そこは彼の得意の壇場《だんじょう》だった。彼は音楽の権威だったから人々から謹聴された。彼はそれに乗じていた。図に乗ってるともいえるほどだった。クリストフの方は何にも聞くことができなかった。彼は芝居が待ち遠しくてたまらなかったし、宮殿のように思われる広間の光景に威圧され、恐ろしいほど込み合ってる看客に威圧されていた。皆の視線が自分に向けられてるように思って、後ろをふり返るだけの勇気もなかった。小さな帽子を膝《ひざ》の間にはさんでびくびくしながら、眼を丸くして不思議な幕を見つめていた。
ついに柝《き》の音が三つ響いた。祖父は鼻をかんで、ポケットから台本《リヴレット》を取出した。彼はいつもその台本を丹念にたどることを欠かさないで、時としては舞台で演ぜられてることを忘れるくらいだったのである。管弦楽《オーケストラ》が始まった。最初の和音を聞くや否や、クリストフは心が落着くのを感じた。その音響の世界では、自分の家のような気がした。それから先はもう、舞台にどんな不思議なことが起ころうと、すべて自然であるように思われた。
幕が上がって、厚紙の樹木やほんとうらしくない人物などが現われた。子供は感心して口をぼんやり開きながら眺めた。しかしびっくりしてはいなかった。それでも劇は、彼が思いもつかない夢のような近東の事柄だった。劇詩の筋は荒唐無稽《こうとうむけい》で、まったく訳がわからなかった。クリストフは何にも見分けることができなかった。彼はすべてを混同し、人物を取り違え、祖父の袖《そで》を引張っては、何も理解していないことがわかるような馬鹿《ばか》げた質問をやたらにした。しかも彼は退屈してないばかりでなく、夢中になって面白がっていた。つまらない台本《リヴレット》にもとづいて、みずから一つの小説を作り上げていたが、それは演ぜられてることとまったく無関係なものだった。舞台の出来事はたえずその小説と背馳《はいち》するので、また新たに筋を立て直さなければならなかった。しかし彼はそれに困らされはしなかった。舞台の上で種々な声を出して進展してゆく人物のうちから、自分の気に入る者を選んで、それに同情を寄せながら、その運命がどうなりゆくかと胸を震わして見守っていた。とくに彼の心を悩ましたのは、中年の美しい女であって、輝いた長い金髪をもち、眼が馬鹿に大きくて、素足で歩いていた。演出の驚くべき不自然
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