……。
自分で作り出した話を終えてしまった時、彼はまた暗い階段の上に上っていた。彼はも一度下を覗《のぞ》いた。するともう少しも飛び降りたい気がしなかった。ちょっと身震いさえして、落ちるかもしれないと思いながらその端から遠のいた。その時彼は、まったく囚《とら》われの身なのを感じた。あわれな籠《かご》の鳥のようで、永久に囚われの身であり、頭を割るか大|我怪《けが》をするかよりほかに逃げ道はなかった。彼は泣きに泣いた。きたない手で眼をこすっていたので、すぐに顔じゅう真黒になってしまった。そして泣きながらも、あたりのものを見つづけていた。それで気がまぎらされた。彼はちょっと泣声をやめて、動き出した蜘蛛《くも》を眺《なが》めた。それからまた泣きだしたが、前ほど本気ではなかった。自分の泣声に耳を澄していた。もうなぜだかよくもわからずにただ機械的な泣声をつづけていた。やがて彼は立ち上がった。窓に引きつけられたのである。彼は窓の内側に腰掛け、用心深く身体を奥の方に引込ませて、面白くもあるがまた厭《いや》な気もする蜘蛛を、じろじろ横目で見守った。
下には家のすぐそばをライン河が流れていた。階段の窓から覗《のぞ》くと、河の真上になっていて、揺らめく空中にいるがようだった。クリストフは一段一段と階段を降りてゆく時、いつも欠かさずその河を眺めたのだった。しかしまだかつて、その日のように河を見たことはなかった。悲痛は感覚を鋭利にする。色|褪《あ》せた記憶の跡が涙に洗われた後には、すべてが眼の中によりよく刻み込まれるらしい。子供には河が生物のように見えた――不可解な生物、しかも彼が知ってる何よりもいく倍となく力強い生物! クリストフはなおよく見るために身を乗り出した。窓ガラスの上に口をあて鼻を押しつけた。彼[#「彼」に傍点]はどこへ行こうとしているのか? 彼[#「彼」に傍点]は何を望んでいるのか? 彼[#「彼」に傍点]は自分の道を信じきってるような様子である。……何物も彼[#「彼」に傍点]を止めることはできない。昼も夜もいかなる時でも、雨が降ろうと日が照ろうと、家の中に喜びがあろうと悲しみがあろうと、彼[#「彼」に傍点]は流れつづけている。すべて何事も彼[#「彼」に傍点]にとってはどうでもいいことらしい。彼[#「彼」に傍点]はかつて苦しんだことがなく、常に自分の力を楽しんでいるらしい。彼[#「彼」に傍点]のようだったら、どんなに愉快だろう! 牧場や、柳の枝や、光ってる小石や、さらさらした砂や、そういうものの間を分けて走り、何物にも気をもまず、何物にも煩わされず、まったくの自由である、そうなったらどんなに愉快だろう!……。
子供は貪《むさぼ》るように眺めまた聴いていた。河に運ばれてるような気がした……。眼をつぶると、青や緑や黄や赤などの色が見えてき、過ぎゆく大きな影や、一面に降り注ぐ日の光が、見えてくる。……映像はしだいにはっきりとなる。それ、広い平野、葦《あし》の茂み、新鮮な草や薄荷《はっか》の匂いがする微風に波打っている畑の作物。至るところに花が咲いている、矢車草、罌粟《けし》、菫《すみれ》。なんと美しいことだろう! なんと快い空気だろう! 密生した柔かな草の中に寝転んだら、さぞ気持がいいだろう!
……祝いの日に、ライン産の葡萄酒《ぶどうしゅ》を少しばかり、大きな杯に父からついでもらった時のように、クリストフは心|嬉《うれ》しくて、少しぼーっとした心地になってくる……。――河は流れてゆく……。景色が変わる……。こんどは、水の上に覗《のぞ》き出た木立。歯形に切れてる木の葉は、小さな手のような形をして、河の中に浸り動き裏返っている。木立の間には、一つの村落が河に映っている。流れに洗われてる白壁の上には、墓地の糸杉や十字架が見えている。……次には、種々な岩、立ち並んだ山、傾斜地の葡萄畑、小さな樅《もみ》の林、荒廃した城《ブルク》……。それからまた、平野、作物、小鳥、日の光……。
緑色の満々たる河水は、ただ一つの思想のように一体をなして、波も立てず、ほとんど皺《しわ》も寄せず、脂《あぶら》ぎって光ってる水形模様を見せながら、流れつづける。クリストフはもうそれを眼には見ない。彼はその音をなおよく聞くために、眼をすっかり閉じている。たえざる水音は彼の心を満たし、彼に眩暈《めまい》を与える。その覆《おお》いかぶさってくる悠久《ゆうきゅう》な夢に彼は吸い寄せられる。河水の騒々しい基調の上に、急調の律動《リズム》が激しい愉悦をもって飛び出してくる。そしてそれらの節奏《リズム》のまにまに、棚《たな》に葡萄蔓《ぶどうづる》がよじ上るように、種々の音楽が高まってくる、銀音の鍵盤から出る白銀の琶音《アルペジオ》、悩ましいヴァイオリンの響き、円《まろ》やかな音調のビロー
前へ
次へ
全56ページ中35ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング