長がまだ席についていなかった。きっと病気かもしれなかった……。幕の向うで人々が動き回っていた。話声や忙しい足音が聞えていた。何か起こったのではないかしら、思わぬ不幸がわいてきたのではないかしら……。また静かになった。楽長が自分の位置についた。すっかり準備が整ったらしかった……。でもまだ始まらない! いったいどうしたんだろう。――彼は待遠しくてじりじりしていた。――ついに合図の柝《き》の音が響いた。彼は胸がどきどきした。管弦楽は序曲を奏しだした。そしてクリストフは数時間の間、深い幸福のうちに浸った。その幸福を煩わすものはただ、もうおしまいになりはすまいかという考えばかりだった。

 それからしばらくして、音楽上の一事件がクリストフの考えを刺激した。彼を驚嘆せしめた最初の歌劇《オペラ》の作者たるフランソア・マリー・ハスレルが、やって来ることになった。そして自作の音楽会を指揮することになった。町じゅうの者が興奮した。この若い楽匠は、ドイツで激しい議論の種となっていた。そして半月ほどの間は、町じゅう彼の噂《うわさ》でもちきった。いよいよ彼が到着するとまた特別だった。メルキオルの友人やジャン・ミシェル老人の友人らは、たえず消息をもたらしてきた。この音楽家の習慣や風変わりの点について、彼らは種々な馬鹿げた噂を伝えていった。子供は熱心な注意を傾けてそれらの話を一々聞いていた。えらい人がやって来ている、この町にいる、自分と同じ空気を呼吸している。同じ舗石を踏んでいる、とそういう考えが、彼を無言の感激のうちに投げ込んでしまった。彼はもはや、その人に会いたいという希望ばかりに生きていた。
 ハスレルは大公爵から歓待を申出られて、その宮邸に足を止めていた。彼は稽古《けいこ》の指図をするために劇場へ行くほか、ほとんど外出しなかった。クリストフはその劇場へはいることを許されなかった。またハスレルはごく無精だったので、いつも大公爵の馬車で往来していた。でクリストフには、彼をよくみる機会がなかなかなかった。ただ一度通り道で、馬車の奥にその毛皮の外套《がいとう》を見かけることができたばかりだった。しかしそれだけのことにも、街路を待ち受けていて野次馬の中の第一列を占め、そこから押し出されないようにと、左右に激しく拳固《げんこ》を振り回しながら、数時間費したのだった。また彼は、楽匠の室だと教えられた宮
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