が一度か二度……。そのほかには何事もありませんでした」
「怖《こわ》くなかったか」
「ちっとも……」
 こう言う彼の大胆な顔をみて、何事が起こっても彼はわたしを見捨てて逃げるような男でないということが、いよいよ確かめられた。
 わたしたちは広間へ通った。往来にむかった窓はしまっている。わたしの注意は今やかの犬の方へ向けられたのである。犬もはじめのうちは非常に威勢よく駈け廻っていたが、やがてドアの方へしりごみして、しきりに外へ出ようとして引っ掻いたり、泣くような声をして唸《うな》ったりしているので、私はしずかにその頭をたたいたりして勇気をつけてやると、犬もようよう落ち着いたらしく、私とFのあとについて来たが、いつもは見識《みし》らない場所へ来るとまっさきに立って駈け出すにもかかわらず、今夜はわたしの靴の踵《かかと》にこすりついて来るのであった。
 私たちはまず地下室や台所を見まわった。そうして、穴蔵に二、三本の葡萄酒の罎《びん》がころがっているのを見つけた。その罎には蜘蛛《くも》の巣が一面にかかっていて、多年そのままにしてあったことが明らかに察せられると同時に、ここに棲む幽霊が酒好きでないことも確かにわかったが、そのほかには別に私たちの興味をひくような物も発見されなかった。外には薄暗い小さな裏庭があって、高い塀にかこまれている。この庭の敷石はひどくしめっているので、その湿気とほこりと煤煙《ばいえん》とのために、わたしたちが歩くたびに薄い足跡が残った。
 わたしは今や初めて、この不思議なる借家において第一の不思議を見たのである。
 わたしはあたかも自分の前に一つの足跡を見つけたので、急に立ちどまってFに指さして注意した。一つの足跡がまたたちまち二つになったのを、わたしたちふたりは同時に見た。ふたりはあわててその場所を検査すると、わたしの方へむかって来たその足跡はすこぶる小さく、それは子供の足であった。その印象はすこぶる薄いもので、その形を明らかに判断するのは困難であったが、それが跣足《はだし》の跡であるということは私たちにも認められた。
 この現象は私たちが向うの塀にゆき着いたときに消えてしまって、帰る時にはそれを繰り返すようなこともなかった。階段を昇って一階へ出ると、そこには食堂と小さい控室がある。またそのうしろには更に小さい部屋がある。この第三の部屋は下男の居間であったらしい。それから座敷へ通ると、ここは新しくて綺麗であった。そこへはいって、わたしは肘かけ椅子に倚《よ》ると、Fは蝋燭立てをテーブルの上に置いた。わたしにドアをしめろと言いつけられて、彼が振りむいて行ったときに、わたしの正面にある一脚の椅子が急速に、しかもなんの音もせずに壁の方から動き出して、わたしの方から一ヤードほどの所へ来て、にわかに向きを変えて止まった。
「ははあ、これはテーブル廻しよりもおもしろいな」と、わたしは半分笑いながら言った。
 そうして、わたしがほんとうに笑い出したときに、わたしの犬はその頭をあとへひいて吠《ほ》えた。
 Fはドアをしめて戻って来たが、椅子の一件には気がつかないらしく、吠える犬をしきりに鎮めていた。わたしはいつまでもかの椅子を見つめていると、そこに青白い靄《もや》のようなものが現われた。その輪郭《りんかく》は人間の形のようであるが、わたしは自分の眼を疑うほどにきわめて朦朧たるものであった。犬はもうおとなしくなっていた。
「その椅子を片付けてくれ。むこうの壁の方へ戻して置いてくれ」と、わたしは言った。
 Fはその通りにしたが、急に振りむいて言った。
「あなたですか。そんなことをしたのは……」
「わたしが……。何をしたというのだ」
「でも、何かがわたくしをぶちました。肩のところを強くぶちました。ちょうどここの所を……」
「わたしではない。しかし、おれたちの前には魔術師どもがいるからな。その手妻《てづま》はまだ見つけ出さないが、あいつらがおれたちをおどかす前に、こっちがあいつらを取っつかまえてやるぞ」
 しかし、私たちはこの座敷に長居することはできなかった。実際どの部屋《へや》も湿《しめ》っぽくて寒いので、わたしは二階の火のある所へ行きたくなったのである。私たちは警戒のために座敷のドアに錠《じょう》をおろして出た。今まで見まわった下の部屋もみなそうして来たのであった。
 Fがわたしのためにえらんでおいてくれた寝室は、二階じゅうでは最もよい部屋で、往来にむかって二つの窓を持っている大きい一室であった。規則正しい四脚の寝台が火にむかって据えられて、ストーブの火は美しくさかんに燃えていた。その寝台と窓とのあいだの壁の左寄りにドアがあって、そこからFの居間になっている部屋へ通ずるようになっていた。
 次にソファー・ベッドの付いている小さい部屋があって、それは階段の昇《あが》り場になんの交通もなく、わたしの寝室に通ずるただ一つのドアがあるだけであった。
 寝室の火のそばには、衣裳戸棚が壁とおなじ平面に立っていて、それには錠をおろさずに、にぶい鳶《とび》色の紙をもっておおわれていた。試みにその戸棚をあらためたが、そこには女の着物をかける掛け釘があるばかりで、ほかには何物もなかった。さらに壁を叩いてみたが、それは確かに固形体で、外は建物の壁になっていた。
 これでまず家じゅうの見分《けんぶん》を終わって、わたしはしばらく火に暖まりながらシガーをくゆらした。この時まで私のそばについていたFは、さらにわたしの探査を十分ならしめるために出て行くと、昇り口の部屋のドアが堅くしまっていた。
「旦那」と、彼は驚いたように言った。「わたくしはこのドアに錠をおろした覚えはないのです。このドアは内から錠をおろすことは出来ないようになっているのですから……」
 その言葉のまだ終わらないうちに、そのドアは誰も手を触れないにもかかわらず、また自然にしずかにあいたので、私たちはしばらく黙って眼を見あわせた。化け物ではない、何か人間の働きがここで発見されるであろうという考えが、同時に二人の胸に浮かんだので、わたしはまずその部屋へ駈け込むと、Fもつづいた。
 そこは家具もない、なんの装飾もない、小さい部屋で、少しばかりの空き箱と籠《かご》のたぐいが片隅にころがっているばかりであった。小さい窓の鎧戸《よろいど》はとじられて、火を焚くところもなく、私たちが今はいって来た入り口のほかには、ドアもなかった。床には敷物もなく、その床も非常に古くむしばまれて、そこにもここにも手入れをした継ぎ木の跡が白くみえた。しかもそこに生きているらしい物はなんにも見えないばかりか、生きている物の隠れているような場所も見いだされなかった。
 私たちが突っ立って、そこらを見まわしているうちに、いったんあいたドアはまたしずかにしまった。二人はここに閉じこめられてしまったのである。

       二

 私はここに初めて一種の言い知れない恐怖のきざして来るのを覚えたが、Fはそうではなかった。
「われわれを罠《わな》に掛けようなどとは駄目《だめ》なことです。こんな薄っぺらなドアなどは、わたしの足で一度蹴ればすぐにこわれます」
「おまえの手であくかどうだか、まず試《ため》してみろ」と、わたしも勇気を振るい起こして言った。「その間におれは鎧戸をあけて、外に何があるか見とどけるから」
 わたしは鎧戸の貫木《かんぬき》をはずすと、窓は前にいった裏庭にむかっているが、そこには張り出しも何もないので、切っ立てになっている壁を降りる便宜《よすが》もなく、庭の敷石の上へ落ちるまでのあいだに足がかりとするような物は見あたらなかった。
 Fはしばらくドアをあけようと試みていたが、それがどうにもならないので、わたしの方へ振りむいて、もうこの上は暴力を用いてもいいかと聞いた。
 彼が迷信的の恐怖に打ち克《か》って、こういう非常の場合にも沈着で快活であることは、実にあっぱれとも言うべきで、わたしはいろいろの意味において、いい味方を連れて来たことを祝さなければならなかった。そこで、わたしは喜んで彼の申しいでを許可したが、いかに彼が勇者であってもその力は弱いものと見えて、どんなに蹴ってもドアはびくともしなかった。
 彼はしまいには息が切れて、蹴ることをあきらめたので、わたしが立ち代ってむかったが、やはりなんの効もなかった。それをやめると、ふたたび一種の恐怖がわたしの胸にきざして来たが、今度はそれが以前よりもぞっとするような、根強いものであった。
 そのとき私は、ささくれ立った床《ゆか》の裂け目から何だか奇怪な物凄いような煙りが立ち昇って来て、人間には有害でありそうな毒気が次第に充満するのを見たかと思うと、ドアはさながら我が意思をもって働くように、またもやしずかにあいたので、監禁を赦《ゆる》された二人は早《そう》そうに階段のあがり場へ逃げ出した。
 一つの大きい青ざめた光り――人間の形ぐらいの大きさであるが、形もなくて、ただふわふわしているのである。それが私たちの方へ動いて来て、あがり場から屋根裏の部屋へつづいている階段を昇ってゆくので、私はその光りを追って行った。Fもつづいた。
 光りは階段の右にある小さい部屋にはいったが、その入り口のドアはあいていたので、私もすぐ跡《あと》からはいると、その光りはうず巻いて、小さい玉になって、非常に明かるく、あたかも生けるがごとくに輝いて、部屋の隅にある寝台の上にとどまっていたが、やがて顫《ふる》えるように消えてしまったので、私たちはすぐにその寝台をあらためると、それは奉公人などの住む屋根裏の部屋には珍らしくない半天蓋《はんてんがい》の寝台であった。
 寝台のそばに立っている抽斗《ひきだし》戸棚の上には絹の古いハンカチーフがあって、その綻《ほころ》びを縫いかけの針が残っていた。ハンカチーフはほこりだらけになっていたが、それは恐らく先日ここで死んだという婆さんの物で、婆さんはここを自分の寝床にしていたのであろう。
 わたしは多大の好奇心をもって抽斗をいちいちあけてみると、そのなかには女の着物の切れっぱしと二通の手紙があって、手紙には色のさめた細い黄いろいリボンをまきつけて結んであった。わたしは勝手にその手紙を取りあげて自分の物にしたが、ほかには何も注意をひくような物は発見されなかった。
 かの光りは再び現われなかったが、二人が引っ返してここを出るときに、ちょうどわたしたちの前にあたって、床をぱたぱたと踏んでゆくような跫音《あしおと》がきこえた。私たちはそれから都合|四間《よま》の部屋を通りぬけてみたが、かの跫音はいつも二人のさきに立って行く。しかもその形はなんにも見えないで、ただその跫音が聞こえるばかりであった。
 わたしはかの二通の手紙を手に持っていたが、あたかも階段を降りようとする時に、何ものかが私の臂《ひじ》をとらえたのを明らかに感じた。そうして、わたしの手から手紙を取ろうとするらしいのを軽く感じたが、私はしっかりとつかんで放さなかったので、それはそのままになってしまった。
 二人は私のために設けられている以前の寝室に戻ったが、ここで私は自分の犬が私たちのあとについて来なかったことに気がついた。犬は火のそばに摺《す》り付いてふるえているのであった。
 私はすぐにかの手紙をよみ始めると、Fはわたしが命令した通りの武器を入れて来た小さい箱をあけて、短銃《ピストル》と匕首《あいくち》を取り出して、わたしの寝台の頭のほうに近いテーブルの上に置いた。そうして、かの犬をいたわるように撫《な》でていたが、犬は一向にその相手にならないようであった。
 手紙は短いもので、その日付けによると、あたかも三十五年前のものであった。それは明らかに情人がその情婦に送ったものか、あるいは夫が若い妻に宛てたものと見られた。文章の調子ばかりでなく、以前の旅行のことなどが書いてあるのを参酌《さんしゃく》してみると、この手紙の書き手は船乗りであって、その文字の綴り方や書き方をみると、彼はあまり教育のある人物とは思われなかっ
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