るのを見て、わたしは今までの恐怖を忘れたように嬉しく感じた。空には月がある。眠った街にはガス燈の光りがある。わたしは部屋の方を振り返ってみると、月の影はそこへもさし込んで、その光りははなはだ青白く、かつ一部分ではあったが、ともかくもそこらが明かるくなっていた。かの黒い物はなんであったか知らないが、形はもう消えてしまって、正面の壁にその幽霊かとも見えるような薄い影をとどめているのみであった。
 わたしは今、テーブルの上に眼を配ると、テーブル――それにはクロスもカヴァーもない、マホガニーの木で作られた円い古いテーブルであった――の下から一本の手が臂《ひじ》のあたりまでぬう[#「ぬう」に傍点]と出て来た。その手は私たちの手のように血や肉の多くない、痩《や》せた、皺《しわ》だらけの、小さい手で、おそらく老人、ことに女の手であるらしく思われたが、そろりそろりと伸びて来て、テーブルの上にある二通の手紙に近づいたかと見るうちに、その手も手紙も共に消えうせた。
 この時さっき聴いたと同じような、物を撃つ音が大きく三度ひびいた。その音がしずかにやむと、この一室が震動するように感じられて、床の上のそこからもここからも、光りの泡のような火花と火の玉があらわれた。それは緑や黄や、火のごとく紅《あか》いのや、空のごとく薄青いのや、いろいろの色をなしているのであった。椅子は誰が動かすともなしに壁ぎわを離れて、寝台の正面に直されたかと思うと、女の形がそこにあらわれた。それは死人のように物凄いものではあったが、生きている者の形であるらしく明らかに認められた。
 それは悲しみを含んだ若い美人の顔であった。身には雲のように白いローブ(長いゆるやかな着物)をまとって、喉《のど》から肩のあたりは露出《あらわ》になっていた。女は肩に垂れかかる長い黄いろい髪を梳《す》きはじめたが、私のほうへは眼もくれずに、耳を傾けるような、注意するような、待つような態度で、ドアの方を見つめていると、うしろの壁に残っている「黒い物」の影はまた次第に濃くなって、その頭にある二つの眼のようなものが女の姿を窺っているらしくも思われた。
 ドアはしまっているのであるが、あたかもそこからはいって来たように、他の形があらわれた。それも女とおなじくはっきりしていて、同じく物凄く見えるような、若い男の顔であった。男は前世紀か、またはそれに似た
前へ 次へ
全27ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
リットン エドワード・ジョージ・アール・ブルワー の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング