紙幣をポケットに捻《ね》じ込んだ。
 しかも翌あさ遅く眼をさましたとき、彼は空想の富を失ったのにがっかりしながら街へ出ると、いつの間にか伯爵夫人の邸の前へ来た。ある未知《みち》の力がそこへ彼を引き寄せたともいえるのである。彼は立ち停まって窓を見上げると、一つの窓から房ふさとした黒い髪の頭が見えた。その頭はおそらく書物か刺繍台の上にうつむいていたのであろう。と思う間に、その頭はもたげられ、生き生きとした顔と黒い二つのひとみが、ヘルマンの眼にはいった。
 彼の運命はこの瞬間に決められてしまった。

       三

 リザヴェッタ・イヴァノヴナは彼女の帽子と外套をぬぐか脱がないうちに、伯爵夫人は彼女を呼んで、ふたたび馬車の支度をするように命じたので、馬車は玄関の前に牽《ひ》き出された。そうして、夫人と彼女とはおのおのその席に着こうとした。二人の馭者が夫人を扶《たす》けて馬車へ入れようとする時、リザヴェッタはかの工兵士官が馬車の後《うしろ》にぴったりと身を寄せて立っているのを見た。――彼は彼女の手を掴《つか》んだ。あっと驚いて、リザヴェッタはどぎまぎしていると、次の瞬間にはもうその姿は消えて、ただ彼女の指のあいだに手紙が残されてあったのに気がついたので、彼女は急いでそれを手袋のなかに隠してしまった。
 ドライヴしていても、彼女にはもう何も見えなかった。聞こえなかった。馬車で散歩に出たときには「今会ったかたはどなただ」とか、「この橋の名はなんというのだ」とか、「あの掲示板にはなんと書いてある」とか、絶えず訊《き》くのが夫人の習慣になっていたが、なにしろ場合が場合であるので、きょうに限ってリザヴェッタはとかくに辻褄《つじつま》の合わないような返事ばかりするので、夫人はしまいに怒り出した。
「おまえ、どうかしていますね」と、夫人は呶鳴《どな》った。「おまえ、気は確かかえ。どうしたのです。わたしの言うことが聞こえないのですか。それとも分からないとでもお言いなのですか。お蔭さまで、わたしはまだ正気でいるし、呂律《ろれつ》もちゃんと廻っているのですよ」
 リザヴェッタには夫人の言葉がよく聞こえなかった。邸《やしき》へ帰ると、彼女は自分の部屋へかけ込んで、手袋から彼の手紙を引き出すと、手紙は密封してなかった。読んでみると、それはドイツの小説の一字一句を訳して、そのままに引用した優しい
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