して再会を約した。自分は父と並んで岸辺に立ッて、二人が船へ乗り込むのを見ていたが、その時の心持はどんなであッたろう,親兄弟にでも別れるように思ッた,そしてその別れる人の心は何人《なんぴと》のことを思ッているのかと思うと、なお悲しさも深かッた。娘が桟橋《さんばし》を渡ッて、いよいよ船へ乗り込もうとして、こちらをふり向いて,
「叔父様、御機嫌よろしゅう。さようなら秀さん」
ト言ッた声、名残りに残したその声がまだ四方に消えぬ内、姿は船の中へ隠れてしまッた。
無情の船頭、船のもやいを解いて棹《さお》を岸の石に突き立てる、船は岸を離れる、もウこれが別れ。父も悄然として次第に遠くなる船を見つめている様子……すると船の窓から貌を出した、誰であろうか、こちらを眺めている、娘ではないか。情を知らぬ夕霧め、川面《かわつら》一面に立て込めてその人の姿をよく見せない,あれが貌かというほどに、ただぼんやりと白いものが、ほんのかすかに見えるばかり。ああそれさえ瞬《またた》きをする間,娘の姿も、娘の影も、それを乗せて往く大きな船も櫓拍子《ろびょうし》のするたびに狭霧《さぎり》の中に蔽《おお》われてしまう,ああ船は遠ざかるか、櫓の音ももウ消え消え,もウ影も形も……櫓の音も聞えない,目に入るものは利根川《とねがわ》の水がただ洋々と流れるばかり……
* * *
娘は江戸へ帰ッてから、ほどなく古河《こが》へ嫁入りしたが、間もなく身重になり、その翌年の秋|虫気《むしけ》づいて、玉のような男子を産み落したが、無残や、産後の日だちが悪く、十九歳を一期として、自分に向ッて別れる時に再会を約したその言葉を、意味もないものにしてしまッた。しかしかつて娘が折ッてくれた鶴、香箱、三方の類《たぐい》はいまだに遺身《かたみ》として秘蔵している。
ああ皆さん、自分は老年の今日までもその美しい容貌《かおかたち》、その優美な清《すず》しい目、その光沢《つや》のある緑の鬢《びんずら》、なかんずくおとなしやかな、奥ゆかしい、そのたおやかな花の姿を、ありありと心に覚えている……が……悲しいかな、その月と眺められ、花も及ばずと眺められた、その人は今いずこにあるか。そのなつかしい名を刻んだ苔蒸《こけむ》す石は依然として、寂寞《せきばく》たるところに立ッているが、その下に眠《ねぶ》るかの人の声は、またこの世で
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