?」
 自分は方角を指し示した。老婆は老爺《じい》の出て往くのを見送り、それから花筵《はなござ》を引き出して来て、
「さア嬢様。お掛けなせいまし、そこはえらく汚ねエだから。さお坊様掛けさッさろ」
「婆やア湯をおくれ、気の毒だが」
「湯かのう? 今上げますで、少し待たッせい,一ッくべ吹《ふ》ッたけるから。
 老婆が鑵子《かんす》の下を吹ッたける間、自分は家の内を見廻した。この家は煤《すす》だらけにくすぶり返ッて、見る影もないアバラス堂で、稗史《よみほん》などによく出ている山中の一軒家という書割であッた。そのうちに鑵子の湯は沸き返ッたが、老婆は、ヒビだらけな汚ない茶碗へ湯を汲《く》んで、それを縁の欠けた丸盆へ載せて出した。自分は喉が渇《かわ》いていたから、器《うつわ》のきたないのも何も知らず、ぐッと一息に飲み、なお三四杯たてつけに飲んだ,娘は口の傍へ持ッて往ッて見て少し躊躇《ためら》ッていたが、それでも半ば飲み干した,この時自分は、「さても鑵子の湯はうまいものだ」と思ッた。
 この老婆は誠に人のよさそうな老婆で、いろいろなことを話しかけるので、娘はその相手をしていた。自分はまたかかる山家へ娘と二人で来て、世話になるというのは、よほど不思議なこと、何かの縁であろうと思ッた,それが考えの緒《いとぐち》で、いろいろのことを思い出した。すなわち、このような山中で、竹の柱に萱《かや》の屋根という、こんな家でもいいによッて、娘と二人していたいと思ッた,するとその連感で、自分は娘と二人でこの家の隣家に住んでいる者で、今ちょッと遊びにでも来た者のような気がした,するとまた娘の姿が自分の目には、洗《あら》い晒《ざら》しの針目衣《はりめぎぬ》を着て、茜木綿《あかねもめん》の襷《たすき》を掛けて、糸を採ッたり衣《きぬ》を織ッたり、濯《すす》ぎ洗濯、きぬた打ち、賤《しず》の手業《てわざ》に暇のない、画にあるような山家の娘に見え出した、いや何となくそのように思われたので。それゆえ自分は連れにはぐれて、今ここへ来ている者だなどということは、ほとんど忘れたようになッていた。不意に表の方が騒がしくなッた。
 自分は覚えず貌を上げてそして姉を見た。
「おお秀坊が!」
 第一に姉が叫んだ。
 誰しも苦痛心配は厭《きら》いであるが楽になッてから後、過ぎ去ッた苦痛を顧みて心に思い出したほど、また楽しみのことは
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