。と言って彼はその心持ちをどうすることも出来なかった。
その日の日暮方、彼は疲れ果てて、S―ステーションの構内へ入って来た。彼は一二等待合室へ入って行った。そしてそこのベンチに腰を下すと、ほっと一つ吐息した。
頭の中は綿でも詰ったようにぼんやりしていた。痴呆《ちほう》のように何も思うこともなかった。ステッキにすがって静かに目をつぶると、ひとりでにうとうとと睡気《ねむけ》がさして来た。自分の隣席で何か話し合っている旅人の話し声、コンクリートの床の上を忙《せわ》しげに往《ゆ》き来する人々の足音、戸をあけたてする音、荷物などを動かし運ぶ音、その他いろいろの雑音、そういうものがすべて彼の睡い耳に溶け合って、さながら子守唄《こもりうた》のように聞かれた。彼を睡らせるために唄う子守唄のように滑《なめ》らかに、静かに、心地《ここち》よく彼の耳に響いて来た。そしてちょうどその時かしましく鳴らして歩いた、汽車の出発を知らせる大ベルの音が、彼の耳には現《うつつ》と睡との間の絶えようとする一線のように幽かに遠く聞かれたのであった。
底本:「日本の文学 78 名作集(二)」中央公論社
1970(昭和45)年8月5日初版発行
※「日本文學全集 70 名作集(二)大正篇」(新潮社、1964)を参考に、誤植が疑われる以下の箇所を直しました。
○つくつぐあたりを見廻した。→つくづくあたりを見廻した。
○わかわかする気忙《きぜわ》しいような→せかせかする気忙《きぜわ》しいような
※「袖《そで》ふれ合うも多少の縁」は底本のままとしました。(上記異本も同様。「多少」は一般には「多生」または「他生」)
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:土屋隆
校正:林幸雄
2004年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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