よ。……何だってそう薄気味悪るく俺を凝視《みつ》めるのだ。なあにお前達のようなものに幾ら睨まれたって俺の値打は決して変らないのだからね。何で変ったりなんぞするものか。……しかし厭だ。もう止してくれ。お前に用はない。早くあっちへ行ってくれ。」
こう呟《つぶ》やき出すものなどもあった。彼が、客室の床の間の前に立った時、そこに何か黒く光る木の台に載せられてあった白色の半透明な石材の香爐と、そしてそれに施こされてあるきわめて微細な彫刻とが確かにそうであった。庭に在る、苔《こけ》むした怪しげな古い石や、不自然に力《りき》みかえっている年老いた樹木やは、彼に対して皮肉な、不明瞭な説明を試みた。否、説明ではない、それはむしろ毒々しい嘲笑であった。そして彼はどこへ行っても、自分自らのこの上もなく貧しい事と、何物とも馴染《なじ》み得ない孤独とを感じた。
帰郷して五日目の朝、彼は初めて裏門を出て、そこに遠く展《ひら》けている豊かな耕原を眺めた。
夏の真紅な日光があらゆる物の上に煌々《こうこう》と光っていた。彼の目にそれが痛く感じられるほどであった。遠い左手に当って大きな桃林があった。その林の上では薄緑色の陽炎《かげろう》がはっきり[#「はっきり」に傍点]と認められた。右手には美しく光る青田が限りもなく続いていた。他の方面に、そこにはキャベツ畑の鮮明な縞があった。近い南瓜畑《かぼちゃばたけ》では熊蜂のうなる音がぶんぶん聞えていた。高く葦を組んでそれに絡《から》み附かせた豌豆《えんどう》の数列には、蝶々の形をした淡紅色の愛らしい花が一ぱいに咲いていた。農夫とその女房達やが、そこここに俯向《うつむ》いて何か仕事をしていた。とは云え、これ等は何も決して物珍らしい景色というのでもなかった。ことにこれは、彼にとってはこれまでに飽きるほども眺めかえされて、……と云うよりはむしろ、あまりに親しいがままにかつてはことさらに眺めるという事さえなかったほどのものであった。それだのに彼は今ここに立って、云うばかりない清新の感にうたれて子供のように歓《よろこ》ばしくなって来た。それがために、自分の現在のさま/″\の事も何もかも一遍にどこかへ消えて行ったかとさえ彼には思われたほどであった。
彼は、畑と畑との間を辿《たど》って進んだ。河骨《こうほね》などの咲いている小流れへ出た。それに添うて三四町行くと、そこに巾の狭い木橋が架《かか》っていた。そこからほど遠からぬところに、さほど広くもないが年中びしょびしょ[#「びしょびしょ」に傍点]している一つの荒地のあった事を思い出したので、彼はそれを目あてに歩いて行った。その場所は、今はだいぶすでに開墾されて立派な畑地になっていた。それでも残余の部分には、一面に雑草が繁り合い、所々に短かい葦などが生えていたりして、どこかにまだ昔の面影が忍ばれた。赤のまんま[#「赤のまんま」に傍点]や、金ぽうげ[#「金ぽうげ」に傍点]などが昔のまゝに多くそこに認められた。
彼は、そこに大きな柳の樹が一本あった事を忘れる事ができなかった。が、それはもう見られなかった。その柳の樹には、彼が幼年時代のもっとも鮮《あざや》かな思い出の一つが宿されていた。それは、歳月とともに次第に薄らぎ滅びてゆく過去の多くの記憶の中に、それのみは独ります/\生々と光を増して来るような種類のものであった。
――彼は、まだ九歳か十歳であった。春の日のある暮れ方二三の遊び友達と遊んだあとで何かつまらない落し物を探していた。その時はそこに自分一人だけであった。と、ふと[#「ふと」に傍点]した機《おり》に、彼はその大きな柳の樹の根元の草叢《くさむら》の中に雲雀《ひばり》の巣を見つけ出したのであった。彼は躍り上るようにして喜んだ。どうしようと云う訳もないのだが、たゞむしょう[#「むしょう」に傍点]と嬉しくて胸がいたずらにどきどき[#「どきどき」に傍点]するのを覚えた。藁屑や、鶏の胸毛や(人間の女の毛なども混じっていた)で巧妙に造られたその巣の中には、灰色の小さな卵が、三個まで数えられたのであった。親鳥が自分の頭の上でしきりに鳴いていた。それに気がつくと彼は、つとそこから離れた。それは、この巣の主が、この乱暴者のために自分の巣を窺《うかが》われている事を知って、それを酷《ひど》く怖《おそろ》しがってその日から巣も卵も捨ててどこかへ逃げてしまいはしないかと思ったからであった。そして彼は、
「まるでうまい工合に深く草の中に隠れていやがる。これでは誰の目にも決して入りはしない。」こう囁いて、その日はそのまま家へ帰って来た。明くる朝、そっとそこをみまってみると、急に巣の中から親鳥が一羽飛んで出た。
「あ、母親だ。」彼はこう云った。そして「卵を温めていたんだな!」と思った。毎日同じようにして
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