辞した私は十月十一日全く英国を去り、ヴイクトリヤ停車場から、ニユーヘブン、デイプを経て武田五一さん(今日京都大学工学部教授)の親切にもルーアン迄の御出迎を受けて同日夕パリに着き、パンテオン附近、カーテルラタンのスーフロウ館、和田英作さん、中村不折さん、中川孝太郎さんの宿に落ちつきました。そして翌年(三十六年)三月頃から南欧の旅に立ち、イタリヤの南端シシリイ島を極として再び北に帰り、瑞西、独乙に各数月を過し、帰国準備のため、ロンドンに帰つたのは三十七年の秋、日露戦役の闌なりし頃、そして懐しい日東帝国に帰つたのは同年十一月です。
 夏目さんの失脚を覗つたなら英国で神妙に英語英文を研究して機会を待つたであらうとは常識にも考へられぬでせうか。
 帰国後、父の望なので東京には住せず、仙台に帰つてブラ/\して居ましたが卅八年四月二高の独語主任青木(昌吉)教授が『独乙語の教師に欠員があるから手伝はぬか』との好意と周旋とにより、甚だ覚束ない独乙語教師として二三年つとめ、続いて職員の都合がついて英語部へ移つて爾来二十余年、今日も猶ほ其運命を続けて居ります。非材の分止むを得ません。
 あなたが誤つて漱石さんのお言葉を伝へたとは到底思ひもよらぬ事ですが、其に因れば漱石さんは二重の誤解をなさいました。
(一)私が『夏目発狂』云々の打電をしたことのないのに打電したとの誤解。
(二)誰が発電したにせよ、せぬにせよ、発電があつたとすれば前後の事情より察しても分る通り其発電者は好意上よりなりしを悪意よりとの誤解。
 外ならぬあなたのお言葉ですから、到底之を否定する事は出来ませんが、実際夏目漱石先生がああいふ言葉を発せられ、ああいふ考を抱かれたとは、どうしても信じたくないのであります。
 帰朝以来千駄木町のお宅に参上したこともあります、蛟竜池底を出でて淵に躍る前後は度々賞讚と渇仰の言を呈したこともあります。漱石全集中の書翰部にある通り、漱石さんの自画像に懇篤の言を添へられたのを頂戴したこともあります。其の漱石さんが私を目して『我が失脚に乗ぜんとて奸策を弄したもの』と思はれ、又人に口外されたとは、どうしても論理に合はず、常識の所見にも合はぬ次第です。『怨を匿《かく》して友とするを左丘明は恥づ、丘も亦恥づ』と孔夫子が仰せられました。しかし何度申しても外ならぬあなたが『良人がかく曰つた』と公言される上は全
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
土井 晩翠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング