の霧をひきはがすことは出来ないというのか、どんなとうとい法力をかりても、どんなおおどかな梵音をひびかしても、己の祈念が外道の執念に叶《かな》わないというのか。
依志子 (妙念の方は顧みで下手の空を仰ぎみつつ)はげしい風が向うへ吹くので、みんな飛ばされるように羽根をひろげて、ほんとに幾千とも数が知れませぬ、山中の鳥が立って行くようでございます。(新たなる聴覚の情)それに、不思議な物の音《ね》がきこえて参りました、あの鳥の声々にまじって、――
[#ここから2字下げ]
この時より妙念は、心中に何事か思い当れるをみずから窺視せんとするがごとく、内に鋭き眼を放ちて凝立してあり。二者の動白各個に分る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
依志子 (ようように肉体の平らかならざるを感じつつ声調次第に変ず)だけども私は――寒さが、妙念様、つめたい蛇の鱗に肌を巻かれるような寒さが、骨の中まで滲《し》みて来る心持はなさいませぬか、(戦慄)何かの水が身体中《からだじゅう》を流れる――(胸を掴み苦悶しつつ)だんだん乳が、膿《うみ》をもったはれもの[#「はれもの」に傍点]のように動悸《どうき》して、こんなに重くなって来ました、――(にわかに思い当れるがごとく)ああ、やっぱり悪蛇が来たのでございます、あの蒼い霧が、どこからともなく漂って参りました妙念様、お手をかして下さいまし、もう眼の中が渦《うず》をまいて、あなたのお姿も見えませぬ、息をするのも、――髪の毛よりも細い蛇が首へからんで息がくるしくなって来ました――
妙念 (にわかに依志子に向い、破るるがごとく、しかれども悲しみ慄《ふる》えて)依志子お前は己の胸の中へ、邪婬の息を吹き込んだのだな。
依志子 (身をあがきて)妙念様――
妙念 今という今、己の眼に、ありありとした物の姿が見えて来た、これまでとうとい法力だと思っていたのは、お前の腹の中でうごめいている醜い胎子のことだったのだ。お前は己の心を邪婬の爪で、ずたずたに引きさいてしまったのだな――
[#ここで字下げ終わり]

     第五段

[#ここから2字下げ]
この時三つの相《すがた》に分ち、顕われたる鬼女清姫、いずこより登りしともなく鐘楼にあらわる。
はなはだしき面色の蒼白は、赤き唇と小さき眼とのみありて、ほとんどなめらか[#「なめらか」に傍点]なるがごとく見え、その形打ちひしがれたる蛇の首のごとく平たし。三つの鬼女全く同じ形相にて並びつくばいたれば、左の肩よりいと長きくろ髪、石段の上に流れ横たわる。依志子のものいうをながめてあれど、妙念もこれを背《そびら》にしたれば知ることなし。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
依志子 妙念様、そうではございませぬ、もう最期《いまわ》に私も、物のまことを申しとうございます、私は――私は――
[#ここから2字下げ]
語終らざるに怪しく叫びてついに昏倒《こんとう》す。
鬼女つくばいたるままに身を退けば、黒き髪のたうち[#「のたうち」に傍点]のぼりてともにかくる。妙念は鬼女の顕われしころより再び※[#「りっしんべん+曹」、37−上−1]然《そうぜん》としてたましい[#「たましい」に傍点]うつけ、依志子が最後の悶叫《もんきょう》をも耳に入らざるさまにて、眼《まなこ》のいろえりたるがごとく、(観客の正面定まりなきあたりに据《す》えて)たたずみてあり。風の音いよいよはげしく、このころより微《かす》かなるあか[#「あか」に傍点]色ようように月夜の空ににじみ来たる。
ややありて最前の僧徒三人、上手の坂路より逃げまどえる哀れなる獣等のごとく走せ上り、依志子の仆《たお》れたるを見さらに驚けるさまなりしが怯《おび》えたる姿にて妙念の上手に立ち――
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
妙信 和尚様、大事でございます。怪しい火《ほ》むらがお山を取り巻いて参りました。
妙海 風の勢いがはげしいので燃え上って来るのはすぐでございます、本門のところでも、山下の方にめらめらと焔《ほのお》が見えたと思いますうち、もう眼の前の空が真赤に映って来たのでございます。
妙信 所詮《しょせん》かなわぬまでも裏山の滝津の中へ身をひそめているより道はございませぬ、和尚様。大事でございます。
妙海 (いよいよいら立ちて)あの凄《すさ》まじい風の勢いが、山上《さんじょう》と山下《さんげ》から焔の波を渦まき返してあおり立てるのでございます。ほんとに手間を取ってはいられませぬ。あ、もうこんなに火の粉が飛んで参りました。
妙信 和尚様、どうなされたのでございます。そのうちには滝津まで降りる道さえふさがれてしまいます。和尚様。
妙源 や、あの音は、(上手の路の
前へ 次へ
全10ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
郡 虎彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング