大震火災記
鈴木三重吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)相模《さがみ》なだ

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)世界|中《じゅう》

[#]:入力者注 主に傍点の位置の指定
(例)相模《さがみ》なだ[#「なだ」に傍点]

/\:くの字点
(例)ぐら/\/\と
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       一

 大正十二年のおそろしい関東大地震の震源地は相模《さがみ》なだ[#「なだ」に傍点]の大島《おおしま》の北上《きたうえ》の海底で、そこのところが横巾《よこはば》最長三海里、たて十五海里の間《あいだ》、深さ二十ひろから百ひろまで、どかりと落ちこんだのがもとでした。
 そのために東京、横浜、横須賀《よこすか》以下、東京湾の入口に近い千葉県の海岸、京浜間《けいひんかん》、相模の海岸、それから、伊豆《いず》の、相模なだ[#「なだ」に傍点]に対面した海岸全たいから箱根《はこね》地方へかけて、少くて四寸以上のゆれ巾、六寸の波動の大震動が来たのです。それが手引《てびき》となって、東京、横浜、横須賀なぞでは、たちまち一面に火災がおこり、相模、伊豆の海岸が地震とともにつなみ[#「つなみ」に傍点]をかぶりなぞして、全部で、くずれたおれた家《いえ》が五万六千、焼けたり流れたりしたのが三十七万八千、死者十一万四千、負傷者十一万五千を出《いだ》し、損害総額百一億円と計上されています。
 東京の市街だけでも、二里四方の面積にわたって四十一万の家々が灰になり、死者七万四千、ゆくえ不明二十一万、焼け出された人口が百四十万、損害八億一千五百万円に上《のぼ》っています。横浜、小田原《おだわら》なぞはほとんど全部があとかたもなく焼けほろびてしまいました。
 これまで世界|中《じゅう》で一ばんはげしかった地震火災は今から十五年|前《まえ》に、イタリヤのメッシーナという重要な港とその附近とで十四万人の市民を殺した大地震と、十七年前、サンフランシスコの震火で二十八|町《ちょう》四方を焼いたのと、この二つですが、こんどの地震は、ゆれ方《かた》だけは以上二つの場合にくらべると、ずっとかるかったのですが、人命以外の損害のひどかった点では、まるでくらべもつかないほどの大災害だったのです。
 この大きな被害も、つまり大部分が火災から来たわけで、ただ地震だけですんだのならば、東京での死人もわずか二、三千人ぐらい、家屋その他の損害も八、九十分の一ぐらいにとどまったろうということです。
 地震の、東京での発震は、九月一|日《じつ》の午前十一時五十八分四十五秒でした。それから引きつづいて、余震(ゆれなおし)が、火災のはびこる中で、われわれのからだに感じ得たのが十二時間に百十四回以上、そのつぎの十二時間に八十八回、そのつぎが六十回、七十回と来ました。どんな小さな地震をも感じる地震計という機械に表われた数は、合計千七百回以上に上《のぼ》っています。

       二

 災害の来た一日はちょうど二百十日《にひゃくとおか》の前日で、東京では早朝からはげしい風雨を見ましたが、十時ごろになると空も青々《あおあお》とはれて、平和な初秋《はつあき》びよりになったとおもうと、午《ひる》どきになって、とつぜんぐら/\/\とゆれ出したのです。同じ市内でも地盤のつよいところとよわいところでは震動のはげしさもちがいますが、本所《ほんじょ》のような一ばんひどかった部分では、あっと言って立ち上《あが》ると、ぐらぐらゆれる窓をとおして、目のまえの鉄筋コンクリートだての大工場《だいこうば》の屋根|瓦《がわら》がうねうねと大蛇《だいじゃ》が歩くように波をうつと見るまに、その瓦の大部分が、どしんとずりおちる、あわてて外へとび出すはずみに、今の大工場がどどんとすさまじい音をたてて、まるつぶれにたおれて、ぐるり一ぱいにもうもうと土烟《つちけむり》が立ち上る、附近の空地《あきち》へにげようとしてかけ出したものの、地面がぐらぐらうごくので足がはこばれない、そこへ、あたり一面からびゅうびゅう木材や瓦がとびちって来るので、どうすることも出来ずに立ちすくんでいると、れいのたおれた工場からは、もう、えんえんと火が上《あが》って来たと話した人があります。
 或《ある》人は、電車で神田《かんだ》神保町《じんぼうちょう》のとおりを走っているところへ、がたがたと来て、電車はどかんととまる、びっくりしてとび下《お》りると同時に、片がわの雑貨店の洋館がずしんと目のまえにたおれる、そちこちで、はりさけるような女のさけび声がする、それから先はまるでむちゅうで須田町《すだちょう》の近くまで走って来たと思うと、いく手にはすでにもうもうと火事の黒烟《くろけむり》が上っていたと言っています。
 まったくそうでしょう。最初の震動は約十四秒つづいたのですが、それから、ものの三分とたたないうちに、神田以下十二区にわたって四十か所から発火したのです。本所や浅草《あさくさ》では、十二時におのおの十二、三か所からもえ上ったくらいです。それから一分おき二分おきに、なおどんどん方々から火が上り、夕方六時近くには全市で六十か所の火が、おのおの何千という家々をなめて、のびひろがり、夜の十二時までの間にはすべてで八十八か所の火の手が、一つになって、とうとう本所、深川《ふかがわ》、浅草、日本橋《にほんばし》、京橋《きょうばし》の全部と、麹町《こうじまち》、神田、下谷《したや》のほとんど全部、本郷《ほんごう》、小石川《こいしかわ》、赤坂《あかさか》、芝《しば》の一部分(つまり東京の商工業区域のほとんどすっかり)が、まるで影も形もなく、きれいに焼きつくされてしまったのです。
 その発火のもとは、病院の薬局や、学校の理化学室や、工場なぞの、薬品から火が出たのや、諸工場の工作ろ[#「ろ」に傍点]や、家々のこんろ[#「こんろ」に傍点]なぞから来たものもありますが、そのほかにとび火も少くなかったようです。何分《なにぶん》地震で屋根がこわれ落ちているところへ、どんどん火の子をかぶるのですからたまったものではありません。当夜火の中をくぐってにげて来た人の話によりますと、二十|間《けん》巾《はば》ぐらいの往来でも、片がわが焼けて来て、ほのおが風のようにびゅうと、ひくく地上をはったと見ると、向うがわはもうまっ赤《か》にもえ上るというすさまじさだったそうです。かけ出した各消防署のポンプも、地震で水道の鉄管がこわれて水がまるで出ないので、どうしようにも手のつけようがなく、ところにより、わずかに堀割《ほりわり》やどぶ川の水を利用して、ようやく二十二、三か所ぐらいは消しとめたそうですが、それ以上にはもう力がおよばなかったのです。大きな工場や、工事中のビルヂィングなぞには、地震でがらがらとつぶされて、一どに何百人という人が下じきになり、うめきさけんでいるところへ、たちまち火がまわって来て、一人ものこらず焼け死んだのがいくつもあります。
 多くの人々は、大《たい》てい、ソラ火がまわったというので、着《き》のみ着のままにげ出したようです。中には、安全と思うところへ早く家財なぞをもち出して一安神《ひとあんしん》していると、間《ま》もなく、ふいに思わぬところから火の手がせまって来たりして、せっかくもち出したものもそのままほうってにげ出す間もなく、こんどは、ぎゃくにまっ向《こ》うから火の子がふりかぶさって来《く》るという調子で、あっちへ、こっちへと、いくどもにげにげするうちに、とうとうほりわり[#「ほりわり」に傍点]のところなぞへおいつめられて、仕方なしに泥水《どろみず》の中へとびこむと、その上へ、後《あと》から何十人という人がどんどんおちこんで、下のものはおしつけられておぼれてしまうし、上の方にいた人は黒こげになって、けっきょく一人のこらず死んだような場所もあります。
 てんでんにつつみをしょってかけ出した人も、やがて往来が人一ぱいで動きがとれなくなり、仕方なしに荷をほうり出す、むりにせおってつきぬけようとした人も、その背中の荷物へ火の子がとんでもえついたりするので、つまりは同じく空手《からて》のまま、やっとくぐりぬけて来たというのが大方《おおかた》です。気のどくなのは、手近《てぢか》の小さな広場をたよって、坂本《さかもと》、浅草、両国《りょうごく》なぞのような千坪二千坪ばかりの小公園なぞへにげこんだ人たちです。そんな人は、ぎっしりつまったなり出るにも出られず、みんな一しょにむし焼きにあってしまいました。
 そんなわけで、なまじっかなところではとてもあぶないので、大部分の人は、とおい山の手の知り合いの家々や、宮城《きゅうじょう》前の広地《ひろち》や、芝、日比谷《ひびや》、上野《うえの》の大公園なぞを目がけてひなん[#「ひなん」に傍点]したのです。平生《へいぜい》はふつうの人のはいれない、離宮や御《ぎょ》えん[#「えん」に傍点]や、宮内省《くないしょう》の一部なども開放されたので、人々はそれらの中へもおしおしになってにげこみました。
 にげるについて一ばんじゃまになったのは、いろんなものをはこびかけている、車や馬車や自動車です。多くのところではそれが往来に一ぱいつづきはだかっているので、歩こうにも出ようにもあがきがとれなかったと言います。そんなところでは、ただぎゅうぎゅうおされ/\て、やっと一寸二寸ずつうごいていくだけなので、目ざす広場へつくのに、平生なら二十分でいけるところを、二時間も三時間もかかったと言っていた人があります。ぐずぐずしているうちには後《うしろ》の方の人は見る見るむし焼きになり、横の方からはどんどん火の子が来て、着物や髪にもえつくというようなありさまで、女や子どもの中には、ふみたおされて死んだものもどれだけあるか分らないと言われています。
 中でも一ばん悲さん[#「さん」に傍点]だったのは、本所の被服しょう[#「しょう」に傍点]あとへにげこんだ人たちです。そこは、ともかく何万坪という広い構内ですから、本所かいわいの人たちは、だれもそこなら安全だと思って、どんどん荷物をはこびこみました。夜になってからは、いよいよ多くの人が、むりやりにわりこんで来て、ぎっしり一ぱいにつまってしまいました。ところが、そこも、やがて、ぐるりと火の手につつまれ、多くの荷物へどんどんもえ移って来て、とうとう、三万二千という多数の人が、すっかり黒こげになってしまいました。
 その群《むら》がりかさなってたおれた人の一ばん下になっていたために、からくもたすかって息をふきかえし、上部の人がすっかり黒やけになったのち、やっともぐり出たという人が二、三十人ばかりあります。そんな人たちの話をきくと、まるで身の毛もよだつようです。或一人は、当夜、火の手がせまって息ぐるしくてたまらないので、人のからだの下へぐんぐん顔をつッこんでうつ伏《ぶ》しになっていたが、しまいには、のどがかわいて目がくらみそうになる、そのうちに、たまたま、水見たいなものが手にさわったので、それへ口をつけて、むちゅうでぐいぐい飲んだまではおぼえているが、あとで考えると、その水気《みずけ》というのは、人の小便《しょうべん》か、焼け死んだ死体のあぶらが流れたまっていたのだろうと話しました。
 そのほかいろいろの方面のそう[#「そう」に傍点]難者について、さまざまのいたいたしい話を聞きました。永代橋《えいたいばし》が焼けおちるのと一しょに大川《おおかわ》の中へおちて、後《あと》でたすけ上げられた或婦人なぞは、最初三つになる子どもをつれて、深川の方からのがれて来て、橋の半ば以上のところまで、ぎゅうぎゅうおされてわたって来たと思うと、急に、さきが火の手にさえぎられて動きがつかなくなり、やがてま上《うえ》へもびゅうびゅう火の子をかぶって息も出来ません。婦人はもうこれなり焼け死ぬものと見きわめをつけやっと帯や小帯《こおび》をつないで子どもをしばりつけて川の上へたぐり下《おろ》し、下を船がとおりかかったらその中へ落すつもりでまっているうちに
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