」と藤さんが問う。小母さんも、「私ももう五六度写ったはずだがねえ。いつできるんだろう。まだ一枚もくれないのね」と突っ込む。それから小母さんは、向いの地方《じがた》へ渡って章坊と写真を撮《と》った話をする。章坊は、
「今度は電話だ」と言って、二つの板紙《ボールがみ》の筒を持って出てくる。筒の底には紙が張ってあって、長い青糸が真ん中を繋《つな》いでいる。勧工場《かんこうば》で買ったのだそうである。章坊は片方の筒を自分に持たせて、しばらく何かしら言って、
「ね、解ったでしょう?」という。
「ああ、解ったよ」といい加減に間《ま》を合わしておくと、
「万歳」と言ってにこにこして飛んできて、藤さんを除《ど》けて自分の隣りへあたる。
「よ。姉さんもだよ」という。
「よしよし」
「何の事なんです」と藤さんは微笑む。
「今電話がかかりましてね、……」
「ああ今言っちゃいけないんだよ兄さん。あれは姉さんには言われないんだから」
「何でしょう。人が悪いのね」
 このようなことを言っているところへ、初やが狐饅頭《きつねまんじゅう》を買って帰ってくる。小|提灯《ぢょうちん》を消すと、蝋燭《ろうそく》から白い煙がふわふわと揚《あが》る。
「奥さま、今度の狐もやっぱり似とりますわいの」と言ってげらげらと初やが笑う。
 饅頭を食べながら話を聞くと、この饅頭屋の店先には、娘に化けて手拭を被った張子の狐が立たせてあった。その狐の顔がそこの家《うち》の若い女房におかしいほどそっくりなので、この近在で評判になった。女房の方では少しもそんなことは知らないでいたが、先達《せんだって》ある馬方が、饅頭の借りを払ったとか払わないとかでその女房に口論をしかけて、
「ええ、この狐め」
「何でわしが狐かい」
「狐じゃい。知らんのか。鏡を出してこの招牌《かんばん》と較べてみい。間抜けめ」
 こういったようなことから、後で女房が亭主に話すと、亭主はこの辺では珍らしい捌《さば》けた男なんだそうで、それは今ごろ始った話じゃないんだ。己の家の饅頭がなぜこんなに名高いのだと思う、などとちゃらかすので、そんならお前さんはもう早くから人の悪口《わるくち》も聞いていたのかと問えば、うん、と言ってすましている。女房はわっと泣きだして、それを今日まで平気でいたお前が恨《うら》めしい。畢竟《ひっきょう》わしをばかにしているからだ。もうこれぎり実家《さと》へ帰って死んでしまうと言って、箪笥《たんす》から着物などを引っ張りだす。やがて二人で大立廻りをやって、女房は髪を乱して向いの船頭の家へ逃げこむやら、とうと面倒なことになったが、とにかく船頭が仲裁して、お前たちも、元を尋ねると踊りの晩に袖を引き合いからの夫妻《めおと》じゃないか。さあ、仲直りに二人で踊れよおい、と五合ばかり取ってきた。その時の女房との条約に基《もとづ》いて、店の狐は翌日から姿を隠してしまった。ほかの狐が箱にはいって城下の人形屋から来て、ふたたび店に立ったのはついこの間の事である。今度のは大きさも鼬《いたち》ぐらいしかないし、顔も少し趣を変えるように注文したのであろうけれど、
「なんぼどのような狐を拵《こしら》えてきたところで、お孝ちゃんの顔が元のままじゃどうしてもだめでがんすわいの。へへへへへ」と、初やは、やっと廻りくどい話を切ってあちらへ立つ。藤さんはもう先達も聞いたから、今夜はそんなにおかしくはないと言ったけれど、それでもやはりはじめてのように笑っていた。
 話が途絶《とだ》える。藤さんは章坊が蒲団へ落した餡《あん》を手の平へ拾う。影法師が壁に写っている。頭が動く。やがてそれがきちんと横向きに落ちつくと、自分は目口眉毛を心でつける。小母さんの臂《うで》がちょいちょい写る。簪《かんざし》で髪の中を掻《か》いているのである。
 裏では初やが米を搗《つ》く。

 自分は小母さんたちと床を列べて座敷へ寝る。
 枕が大きくて柔かいから嬉しいと言うと、この夏にはうっかりしていたが、あんな枕では頭に悪いからと小母さんがいう。藤さんはこの枕を急いで拵えてから、あだに十日あまりを待ち暮したと話す。
 藤さんは小母さんの蒲団の裾《すそ》を叩いて、それから自分のを叩く。肩のところへ坐って夜着の袖をも押えてくれる。自分は何だか胸苦しいような気がする。やがてあちらで藤さんが帯を解く気色《けはい》がする。章坊は早く小さな鼾《いびき》になる。自分は何とはなしに寝入ってしまうのが惜しい。
「ね、小母さん」とふたたび話しかける。
「え?」と、小母さんは閉じていた目を開ける。
「あの、いったい藤さんはどうした人なんです?」と聞くと、
「なぜ?」と言う。
 聞いてみると、この家《うち》が江田島の官舎にいた時に、藤さんの家と隣り合せだったのだそうである。まだ章坊も貰《もら》わない、ずっと先の事であったし、小母さんは大変に藤さんを可愛がって、後には夜も家へ帰すよりか自分の側へ泊らせる方が多いくらいにしていた。はじめそこへ移ってきた翌《あく》る日であったか、藤さんがふと境の扇骨木垣《かなめがき》の上から顔を出して、
「小母さま。今日は」と物を言いかけたのが元であった。藤さんが七つ八つにすぎぬころであったろう。それから四五年してここの主人が亡くなって、小母さんはこちらへ住居をきめることになった。別れの時には藤さんも小母さんも泣いた。藤さんはその後いつまでも小母さん小母さんと恋しがって、今日まで月に一二度、手紙を欠かしたことはない。藤さんの家は今佐世保にあるのだそうで、お父さんは大佐だそうである。
「それでは佐世保からはるばる来たんですか」
「いいえ、あの娘《こ》だけは二た月ばかり前から、この対岸《むかい》にいるんです。あなたでも同《おんな》じですけれど、こんなになると、情合はまったく本当の親子と変りませんわ」
「それだのにこの夏には、あの人の話はちょっとも出ませんでしたね」
「そうでしたかね。おや、そうだったかしら」
「そして私の事はもうすっかりあの人に話してあるようですね」
「ふふふそれはあなた、家では何とかいうとすぐあなたの話が出るんですから、あの人だって、まだ見もしないうちからもう青木さん青木さんと言って、お出でになってもまるで兄妹《きょうだい》かなぞのように思っているんですもの」と章坊の枕を直してやる。
「さっきもね、初やから、お嬢さんは存外人に恥かしがらない方だとかなんとか言ってからか[#「からか」に傍点]われたんでしょう。そうするとね、だってあの方はもうよくお知り申してる方なんだものってそう言うんですよ。それでいてまだずいぶん子供のようなところがあるんですからね」
「私だって何だか、はじめて会った人のようには思えませんよ。――まだ永く逗留《とうりゅう》するんですか」
「あの娘《こ》ですか。そうですね……いったい今度こちらへまいったというのが……」
 しまいを欠《あくび》といっしょに言って、枕へ手を添えたと見ると、小母さんはその後を言わないで、それなりふいと眉毛のあたりまで埋まりこんでしまう。しばらく待ってみても容易にふたたび顔を出さない。蒲団の更紗へ有明行灯《ありあけあんどん》の灯《あかり》が朧《おぼろ》にさして赤い花の模様がどんよりとしている。
 何だか煮えきらない。藤さんが今度来たのはどうしたのだというのか。何かおもしろくない事情があるのであろうか。小母さんは何とか言いかけてひょっくり黙ってしまった。藤さんはどうして九月から家を出ているのか。この対岸《むかい》のどんな人のところにいるのであろう。
 池へ山水の落ちるのが幽《かす》かに聞える。小母さんはいつしか顔を出してすやすやと眠っている。大根を引くので疲れたのかもしれない。小母さんの静かな寝顔をじっと見ていると、自分もだんだんに瞼《まぶた》が重くなる。

 千鳥の話は一と夜明ける。
 自分は中二階で長い手紙を書いている。藤さんが、
「兄さん」と言ってはいってくる。
「あのただ今船頭が行李《こうり》を持ってまいりましたよ」という。
「あれは私のです」と言ったまま、やっぱりずんずんと書いて行く。
「それはそうですけれど、どうせこちらへ運ばなければならないのでしょう?」
「ええ」
「ではこの押入には、下の方はあたしのものが少しばかりはいっておりますから、あなたは当分上の段だけで我慢してくださいましな」
「………」
「ねえ」
「ええ」
「まあ一心になっていらっしゃるんだわ」という。
 ちょうど一と区切りついたから向きなおる。藤さんは少し離れて膝を突いている。
「お召し物も来たんでしょう?――では早くお着換えなさいましな。女の着物なんか召しておかしいわ」と微笑む。自分は笑って、袖を翳《かざ》してみる。
「さっきね」と、藤さんは袂《たもと》へ手を入れて火鉢の方へ来る。
「これごらんなさい」と、袂の紅絹《もみ》裏の間から取りだしたのは、茎《くき》の長い一輪の白い花である。
「このごろこんな花が」
「蒲公英《たんぽぽ》ですか」と手に取る。
「どこで目っけたんです? たった一本咲いてたんですか」
「どうですか。さっき玉子を持ってきた女の子がくれてったんですの。どこかの石垣に咲いていたんだそうです。初やがね、これはこのごろあんまり暖かいものだから、つい欺《だま》されて出てきたんですって」
 返した花を藤さんは指先でくるくる廻している。
「本当にもう春のようですね、こちらの気候は」
「暖いところですのね」
 自分はもくもくと日のさした障子を見つめて、陽炎《かげろう》のような心持になる。
「私ただ今お邪魔じゃございませんか」
「何がです?」
「お手紙はお急ぎじゃないのですか」
「そうですね。――郵便の船は午《ひる》に出るんでしたね」
「ええ。ではあとですぐ行李をこちらへ運ばせますから」と、藤さんは張合がなさそうに立って行く。
「あ、この花は?」
「え?」と出口で振り向いて、
「それはあなたにおあげ申したのですわ」
 藤さんが行ってしまったあとは何やら物足りないようである。たんぽぽを机の上に置く。手紙はもう書きたくない。藤さんがもう一度やってこないかと思う。ちぎった書き崩しを拾って、くちゃくちゃに揉んだのを披《ひろ》げて、皺《しわ》を延ばして畳んで、また披げて、今度は片端から噛み切っては口の中で丸める。いつしかいろいろの夢を見はじめる。――自分は覚めていて夢を見る。夢と自分で名づけている。
 馬の鈴が聞えてくる。女が謡《うた》うのが聞える。
 ふと立って廊下へ出る。藤さんが池のそばに踞《しゃが》んでいて、
「もうおすみになって?」と声をかける。自分は半煮えのような返事をする。母屋《おもや》の縁先で何匹かのカナリヤがやっきに囀《さえず》り合っている。庭いっぱいの黄色い日向は彼らが吐きだしているのかと思われる。
「ちょっといらっしてごらんなさいな。小さな鮒《ふな》かしらたくさんいますわ」と、藤さんは眩《まぶ》しそうにこちらを見る。
「だって下駄がないじゃありませんか」
「あたしだって足袋のままですわ」
 自分もそれなり降りて花床を跨《また》ぐ。はかなげに咲き残った、何とかいう花に裾《すそ》が触れて、花弁《はなびら》の白いのがはらはらと散る。庭は一面に裏枯れた芝生である。離れの中二階の横に松が一叢《ひとむら》生えている。女松の大きいのが二本ある。その中に小さな水の溜りがある。すべてこの宅地を開く時に自然のままを残したのである。
 藤さんは、水のそばの、苔《こけ》の被った石の上に踞んでいる。水ぎわにちらほらと三葉四葉ついた櫨《はぜ》の実生えが、真赤な色に染っている。自分が近づけば、水の面が小砂を投げたように痺《しび》れを打つ。
「おや、みんな沈みました」と藤さんがいう。自分は、水を隔《へだ》てて斜に向き合って芝生に踞む。手を延ばすなら、藤さんの膝にかろうじて届くのである。水は薄黒く濁っていれど、藤さんの翳《かざ》す袂《たもと》の色を宿している。自分の姿は黒く写って、松の幹の影に切られる。
「また浮きますよ」と藤さんがいう。指《ゆび
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