殻を玄関へうつしだすと、おやたくさんにまあと言って嬉しそうにするであろう。自分はそれをもうあったことのように考え浮べながら、袂を抱えて小早に帰る。豆腐屋の前まで来ると、お仙が門口でカンテラへ油をさしていた。
丘を上る途中で、今朝買わせたばかりの下駄だのに、ぷすり前鼻緒が切れる。元が安物で脆弱《ひよわ》いからであろうけれど、初やなぞに言わせると、何か厭なことがある前徴である。しかたがないから、片足袋ぬいで、半分|跣足《はだし》になる。
家へ帰ると、戸口から藤さんを呼びかけて、しばらく玄関にうろついていたが、何の返事もない。もう一度高く呼んで、今度は小母さんと言ってみたがやっぱり返事がない。家じゅうがしんとしていて、自分の声のはいって行く跡が見えるようである。勝手へ廻って初やを呼んでも初やもいない。変だと思いながら、あり合せの下駄を提《さ》げて井戸端へ出て、足を洗おうとしていると、誰かしら障子の内でしくしくと啜《すす》り泣きをしている。障子を開けてみると章坊である。足を投げ出してしょんぼりしている。
「どうしたんだ」と問えど、返事もしないでただ涙を払う。
「お母さんはいないの?」と言えば顔を横に振る。
「いるの?」と言えどやっぱり横に振る。
「どうしたんだ。姉さんはどこへ行ったんだい?」と聞くと、章坊は涙の目を見張って、
「姉さんはもう帰っちゃったんだもの」と泣きだすのである。
「おや、いつ?」
「よその伯父さんが連れに来たんだ」
「どんな伯父さんが」
「よその伯父さんだよ」と涙を啜る。
自分は深い谷底へ一人取残されたような心持がする。藤さんはにわかに荷物を纒《まと》めて帰って行ったというのである。その伯父さんというのはだいぶ年の入《い》った、鼻の先に痘痕《あばた》がちょぼちょぼある人だという。小母さんも初やもいっしょに隣村の埠頭場《はとば》までついて行ったのだそうである。夕方の船はこの村からは出ないのである。初やは大きな風呂敷包みを背負って行った。も少し先のことだという。その伯父さんは章坊が学校から帰ったらもう来ていたというのである。自分は藤さんの身辺の事情が、いろいろに廻り灯籠《どうろう》の影のように想像の中を廻る。今埠頭場まで駈けつけたら、船はまだ出ないうちかもしれない。隣村の真ん中までは二十町ぐらいはあろうけれど、どこかの百姓馬を飛ばせば訳はない。何だか会って一《ひ》と言《こと》別れがしたいようである。このままでは物足りない。欺《だま》されでもしたようにあっけない。駈けつけてみようかしらと思うけれど、考えると、その伴れに来た人間に顔を見られるのが厭である。何だか無性に人相のよくない人間のような気がしてならない。それが怪しげな眼つきをしてじろじろと白眼《にら》みでもすると厭である。また船が出た後であっては間抜けている。そして小母さんに自分などは来なくてもいいのにと思われると何だかきまりが悪い。こう思って決心がつかない。しばらくぼんやりと立って、その伯父さんの顔を考えてみる。これまで見たことのある厭な意地くねの悪い顔をいろいろ取りだして、白髪の鬘《かつら》の下へ嵌《は》めて、鼻へ痘痕《あばた》を振ってみる。
やがて自分はのこのこと物置の方へ行って、そこから稲妻の形に山へついた切道を、すたすたと片跣足《かたはだし》のままで駈け上る。高みに立てば沖がずっと見えるのである。そして、隣村の埠頭場から出る帆があれば、それが藤さんの船だと思ったからである。上《あが》れるだけ一足でも高く、境に繞《めぐ》らす竹垣の根まで、雑木の中をむりやりに上って、小松の幹を捉《つかま》えて息を吐く。
白帆が見える。池のごとくに澄みきった黄昏《たそがれ》の海に、白帆が一つ、動くともなく浮いている。藤さんの船に違いない。帆のない船はみんな漁船《りょうせん》である。藤さんが何か考えこんで斜《はすかい》に坐っているところが想われる。伴れに来た人は何にも言わないで、鼻の痘痕を小指の爪でせせくって坐っているような気がする。藤さんはどんな心持がしているであろう。どういうことからこんなに不意に伴れて行かれたのであろうか。小母さんのところに一と月もいたのはどうしたゆえであろうかと、いろんなことが一度に考えられて、物足りないような、いらだたしい心持がする。船から隣村の岸までは、目で見てもここからこの前の岸までよりかはるかに遠いけれど、まだ一里と乗りだしてはいない。自分が畑に永くいさえしなかったら、少くとも藤さんが出かけるところへなりと帰ってきたであろうに。それともなぜはじめから出て行くのを止さなかったろう。いっしょにいる間は別に何とも思わなかったけれど、こうなってみれば、自分は何かしらあなたをいじらしく思うとくらいは言っておきたかったような気がする。このままで永く別
前へ
次へ
全12ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
鈴木 三重吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング