うしたんでせう。ミスは? あら、何をふざけるのでせう。ほう、とんだり、はねたり狂人娘《きちがひむすめ》のやうに、くる/\まはりをしたりしてゐます。ミスがあんなことをするのは、はじめてです。
 おゝ、ちらりとうしろへ目を向けました。おや、くるりと向きかはつて日がさをふりまはし、をかしな声でさけびながら、あとしざりをしはじめました。
 どうしたんでせう。トゥロットは、しんぱいでたまらなくなりました。


    三

 あゝ、やつとわかつた。パン屋のちん[#「ちん」に傍点]はいやな犬です。あいつは、だれにでも、ウヽ/\うなつてとびかゝります。どうしたわけか、イギリス人の女をひどくきらふやうです。
 そのちん[#「ちん」に傍点]が、今、うなりたけつて、ミスにとびかゝつてゐるのでした。うしろへひきさがつたかとおもふと、なほひどくうなつてとびつき、あと足で立ち上り、つぎには地びたへうづくまつて、きみわるく歯をむき出しました。はゝあ、あの犬をぢやらしたのは、きつと、ミスのふくらはぎ[#「ふくらはぎ」に傍点]です。ミスの靴下です。をかしな犬もゐたものだ。あの犬が、骨をしやぶつてゐるのを、よく見かけました。
 ほう、だん/\にはげしくつッかゝつて来ます。イギリスの女を食べてしまはうと、腹をきめたのでせう。ミスの頬《ほほ》はまつ青《さを》になりました。たゞ鼻だけが、危険におちいつた船の信号燈のやうに赤くもえたつてゐます。ちんはぐん/\そばへ来て、狂つたやうに、ミスのぐるりをかけまはります。それこそ、日がさでおどかしても、やさしい言葉をかけても、きゝはしません。だいたんにも鼻先で、ミスのスカートをひつかきます。
 がつしりしたちん[#「ちん」に傍点]の歯は、ミスのすねの骨ぐみへ、くひつきかけました。ミスはふだんから、わけもなく犬がこはくてたまらない人です。ミスは、今はもう、こめかみをがく/\させ、全身につめたいふるへ[#「ふるへ」に傍点]を走らせました。冷汗《ひやあせ》がかさ/\の背中へじつとりとたまりました。もう、泣かんばかりの顔をして、たすけをさけばうとしてゐます。でもたつた一つ、ミスがイギリス人であるといふ誇りから、なきごゑを出すわけにもいきません。
 戸口に立つて、うす笑ひをかくしてゐたパン屋の店のものは、どつとふき出しました。
 攻撃は、いよ/\もうれつになりました。ちんのいときり歯は、ミスのふくらはぎ[#「ふくらはぎ」に傍点]とおもふあたりへ、がくりとかみつきました。ミスは自尊心を失つて、ひどくあわてさわぎました。スカートをまくし上げて、ラクダのかけ足のやうに、くびのところまですね[#「すね」に傍点]をはね上げました。でもちんは、もつとすばしつこくミスのイギリス製の、じようぶなスカートをくはへました。ですからミスはとび上ることが出来ません。おやといふやうにふりむいたなり、ちようど、かつゑた野獣のきばの下でふう/\息をしてゐる羊のやうに、にらまれながら立ちすくみました。パン屋の人たちは店の入口で腹をかゝへて笑ひました。
 と、犬は、きふに足の間にしつぽ[#「しつぽ」に傍点]をはさみ、耳をたれて、一本の足を空へはね上げてキヤン/\なきながらにげ出しました。トゥロットが、ふざけがあんまり永すぎるとおもつて、もつてゐたおもちやのシャベルで、犬の背中を力一ぱい、ごつんとくらはせたからでした。
 敵のかげは見えなくなりました。ミスはイギリス人らしい威厳と冷やかさとをとりもどして、トゥロットの手をとりました。ミスの血が静脈の中でめぐりはじめました。トゥロットは言ひました。
「ミスはずゐぶん勇敢ね。ねえ、ミス。」
 ミスは、さう言はれて、トゥロットの顔を、けはしい目をしてねめつけました。わたしのことをばかにしていふのだらうか。いや、さうではないらしい。トゥロットの、きよらかに、すんだ、二つの目には、皮肉なぞはちつともうかんではゐません。ミスは、おもはずからだをこゞめて、トゥロットに頬ずりをしました。
 トゥロットは、ほかのことをかんがへてゐたので、ミスが、なぜだしぬけに、頬ずりなんかしたのかといふことを、あまり気にもとめませんでした。
 食事のときにお母ちやまがおきゝになりました。
「けさはおもしろかつたの? トゥロット。」
 トゥロットはいさみ立つてこたへました。
「ね、お母ちやま、ミスはとても勇敢よ。お母ちやまに見せたかつたよ。そしてね、それからね、あのセル……セルブラスのお話をしてくれたの。ね、あの剛……剛勇? 剛勇なサラセン人はスパルタ人なの。そしてじぶんはランプで片手をやかれたの。でも、片手でもつて橋の上に立つて、艦隊の命令をしたの。そしてね……それからね、あのね……。」
 お母ちやまは、そんなお話はおすきでないらしく、
「へえ、えらいのね。さあ、トゥロット、スープをおあがり。」とおつしやいました。
 ですからトゥロットはスープを食べました。トゥロットの目のまへには、みどり色の顔かけをかけ、茶のサージ服を着た、ミスの勇敢な立像がうかんでゐます。トゥロットは、その像をまじ/\と見すゑながら、スープをすゝりました。



底本:「日本児童文学大系 第一〇巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「鈴木三重吉童話全集 第五巻」文泉堂書店
   1975(昭和50)年9月
初出:「赤い鳥」赤い鳥社
   1929(昭和4)年1月
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2007年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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