ときり歯は、ミスのふくらはぎ[#「ふくらはぎ」に傍点]とおもふあたりへ、がくりとかみつきました。ミスは自尊心を失つて、ひどくあわてさわぎました。スカートをまくし上げて、ラクダのかけ足のやうに、くびのところまですね[#「すね」に傍点]をはね上げました。でもちんは、もつとすばしつこくミスのイギリス製の、じようぶなスカートをくはへました。ですからミスはとび上ることが出来ません。おやといふやうにふりむいたなり、ちようど、かつゑた野獣のきばの下でふう/\息をしてゐる羊のやうに、にらまれながら立ちすくみました。パン屋の人たちは店の入口で腹をかゝへて笑ひました。
 と、犬は、きふに足の間にしつぽ[#「しつぽ」に傍点]をはさみ、耳をたれて、一本の足を空へはね上げてキヤン/\なきながらにげ出しました。トゥロットが、ふざけがあんまり永すぎるとおもつて、もつてゐたおもちやのシャベルで、犬の背中を力一ぱい、ごつんとくらはせたからでした。
 敵のかげは見えなくなりました。ミスはイギリス人らしい威厳と冷やかさとをとりもどして、トゥロットの手をとりました。ミスの血が静脈の中でめぐりはじめました。トゥロットは言ひました。
「ミスはずゐぶん勇敢ね。ねえ、ミス。」
 ミスは、さう言はれて、トゥロットの顔を、けはしい目をしてねめつけました。わたしのことをばかにしていふのだらうか。いや、さうではないらしい。トゥロットの、きよらかに、すんだ、二つの目には、皮肉なぞはちつともうかんではゐません。ミスは、おもはずからだをこゞめて、トゥロットに頬ずりをしました。
 トゥロットは、ほかのことをかんがへてゐたので、ミスが、なぜだしぬけに、頬ずりなんかしたのかといふことを、あまり気にもとめませんでした。
 食事のときにお母ちやまがおきゝになりました。
「けさはおもしろかつたの? トゥロット。」
 トゥロットはいさみ立つてこたへました。
「ね、お母ちやま、ミスはとても勇敢よ。お母ちやまに見せたかつたよ。そしてね、それからね、あのセル……セルブラスのお話をしてくれたの。ね、あの剛……剛勇? 剛勇なサラセン人はスパルタ人なの。そしてじぶんはランプで片手をやかれたの。でも、片手でもつて橋の上に立つて、艦隊の命令をしたの。そしてね……それからね、あのね……。」
 お母ちやまは、そんなお話はおすきでないらしく、
「へえ、えらいのね
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