すと、女は、小さなあきかん[#「かん」に傍点]へ水を入れてもって来てくれました。肉屋がそれを病犬の口もとへおきますと、犬はすぐにくび[#「くび」に傍点]をのばして、ぺちゃぺちゃと、一気に半分ばかりのみほしました。そして、さもうれしそうに、くびをふりふりしました。もう一つの犬も口をつけてぴちゃぴちゃのみました。病犬は水を飲んだために、少しは元気がついたように見えました。肉屋は、骨と皮とばかりの、そのからだをなでてやり、
「じゃァ、よくおやすみ。あすまた見に来てやるからな。おお/\、かわいそうに。――おまいもあしたまたおいで。」と、もう一つの犬をもなでていきました。

       二

 あくる朝、肉屋がいつもの時間に店をあけますと、犬はもうちゃんと来てまっていて、くんくん言いながら尾をふります。肉屋は町|中《じゅう》の人々や、買いものに来たお客たちに一々その犬の話をして聞かせました。すると、だれもかれも、
「へえ。」と感心して、犬を見入ったり、くびをなでたりしていきます。犬はやはり夕方まで店の番をつづけました。肉屋はきょうは肉の分量を少しおおくしてやりました。犬はあいかわらずそれをくわえてかえっていきました。肉屋はそのあとから、水さしに水を入れて、それをもってついていきました。
「どら、おれもいって見よう。」と、話を聞いた、となりの人も一しょに出かけました。
 それからいく週間もたちました。感心な犬の話は、そこからかしこへとつたわって、町中で大評判になり、わざわざ肉を買いがてら見に来る人もあったりして、肉屋ははんじょうしました。
 そのうちに夏が来ました。或朝のことです、これまではいつもひとりで来つづけていた犬は、その日は、ほかの一ぴきの犬と二人で店先へ来ていました。犬は、つれの犬を肉屋にひきあわすように、くんくん言い言い尾をふりました。片方は、やせ骨ばって、よろよろしています。それが、こわごわ肉屋の足もとへ来て、顔を見上げました。れいの病犬が歩けるようになって、一しょに来たのです。肉屋は、
「おお、よく来たね。」と、病犬をなでて、上等の肉を切ってなげてやりますと、すぐにがつがつ食べました。先《せん》からの犬はそれを見て、さも満足したように尾をふりました。それからは毎朝ふたりで出て来ました。ふたりとも店の中へは、めったにはいらないで、しき石の上にすわっていたり、そこいらを歩いて来たりします。ふたりがけんかなぞをしたことは、ただの一どもありません。夕方になると、いつも肉のきれをもらって食べて、ふたりで町はずれの寝場所へかえっていきます。町ののら犬たちも、このふたりが肉屋のまえにいるのを、もうあたりまえのように思って、けっしてあらそいもせず、さっさととおっていきます。たまに、はじめてまよいこんで来た犬などが、肉屋の店先にでも近よりますと、ふたりの犬はうんうんおこって、すぐにみぞの中へおとしこんだりします。そのころでは、もはや、町中全部の人が、そのふたりの犬のことを話にのぼしました。
 そのうちに、町には急に或大工場が出来て、何千人という職工たちが移住して来ました。そのために、町の外《そと》へは、どんどん家《うち》がたちつまりました。こうして町が大きくなるにつれて、方々からいろいろの人がどっさり入《い》りこんで来ます。その中には、浮浪人《ふろうにん》もかなりたくさんいて、いろいろわるいことばかりするので、警察も急にいろいろのやかましい法令をつくり、ついで衛生上のことにもあれこれと手をつくし出した結果、恐水病《きょうすいびょう》をふせぐために、町中に、のら犬を歩かせないことにきめてしまいました。その手段として、警察では、ほろ[#「ほろ」に傍点]のついた、大きな野犬《やけん》運ぱん用のはこ[#「はこ」に傍点]車《ぐるま》をつくり、それを馬にひかせて、飼主のわからない犬を見つけると、片はしからつかまえてつんでいき、きまった撲殺場《ぼくさつじょう》へもってって殺しました。
 ほろ馬車のはこ[#「はこ」に傍点]は、鉄のこうし[#「こうし」に傍点]がはまって、中に入れられた犬が見えるようにしてあります。ふとしてくび輪をつけわすれたりしていたために、野犬としてつかまえていかれた場合には、警察へいって罰金をおさめると、はこから出してわたしてくれるのでした。町の人たちの中には、このとりしまり法のために、たとえ野犬でも、いつも来なれていた犬がどんどんひっくくられていくので、恐水病のおそれよりもまえに、じつにひどいことをすると言って、警察へ悪感情をいだくものがずいぶんいました。
 或日、そのほろ馬車の一つが、びっこの馬へびしびしむちを入れながら、でこぼこのしき石の上をがたがたと、肉屋のとおりへはいって来ました。
「やあ、来た来た、犬殺しの馬車が来た。」と、向いの人が往来でどなりました。肉屋は、
「どら。」と言って出て見ました。馬車のうしろには巡査が乗って、野犬はいないかと目を光らせています。
「だんな、うちの犬が二ひきとも見えないがだいじょうぶでしょうか。」と店のものが言いました。
「何《なあに》。あいつは二ひきともきびんだからだいじょうぶだよ。」と言っているうちに、馬車は、十四、五|間《けん》手前で、ぱたりととまりました。
「おや。」と思って見ていますと、巡査は、先に針金《はりがね》の輪のついた、へんな棒きれをもったまま、馬車を下りて、そこの横丁へはいっていきました。と、一分間もたたないうちに、巡査は、犬を一ぴきつかまえて引きずッて来ました。犬はきゃんきゃんなきなきていこうしましたが、くびに綱を引っかけられて、ぐんぐん引っぱられるのですからかないません。馬車|使《つかい》は、すばやく鉄ごうしの戸をあけました。犬はたちまちその中へなげ入れられ、綱をとかれてとじこめられてしまいました。
「あきれたね。」と言いながら、肉屋は馬車に近づきました。警官は馬車のうしろへ乗りました。馬車使はちょっととび下《お》りて馬の頬革《ほおかわ》をしめなおしています。肉屋がのぞいて見ますと、中には二十ぴきばかりの犬がごろごろしています。まさか、うちの犬はいないだろうな、と、よく見ようとするとたんに、「わうわう。」と、かなしそうなうなり声を上げた犬がいます。肉屋は、おやッとびっくりしました。うちの犬がつかまっているのです。病犬もいます。二ひきともやられてしまったのです。馬車使は車台《しゃだい》へあがりました。
「おいおい、ちょっとまった。」と、肉屋はまっ青になって、馬のくつわを引ッつかみながら、巡査に向って、
「もしもし、私《わたし》んとこの犬を二ひきとも出して下さい。何という乱暴なことをするんだ。」と喰《く》ってかかりました。
「どけよ。野犬なら仕方がないじゃないか。こら。」と言いながら、馬車使は、ぴしんとむち[#「むち」に傍点]で肉屋をなぐり、馬にもぴしぴしむち[#「むち」に傍点]をあてて、かけ出そうとしました。
「ちきしょう、人をぶちゃァがったな。」と言いながら、肉屋は、すとんと馬車使を引きずりおろしてつきはなし、馬の口をもって、むりやりに店先の方へまわすはずみに、馬は足をすべらして、ばたんとたおれかけました。
「何《なん》だ何だ。」
「どうしたんだ。」と、町中のものや通行人たちがどやどやかけつけて来ました。
「こいつらがおれんとこのあの犬を、二ひきともひっくくりゃァがったんだ。下《お》りろ、きさま。」と肉屋は巡査の足をつかまえて、むりやりに引きずり下《おろ》しました。人々はみんな、あの二ひきの犬の同情者であるのは言うまでもありません。みんなは、
「なぐれなぐれ。」と言って、巡査をとりかこみました。そのうちに、気の早い男が、大きな大《おお》おの[#「おの」に傍点]をかかえて来て、がちゃん/\と馬車をこわしはじめました。巡査はみんなにつきとばされ、けりつけられて、よろよろしながら、そばの或店の中へにげこみました。その間《あいだ》に、またある一人が鉄の棒をもって来て、がちゃんがちゃんと馬車をたたきつけ、とうとうふたりで鉄ごうしをやぶってしまいました。中の犬たちはおおよろこびでとび出して、八方へにげていきました。肉屋の二ひきの犬は肉屋の足もとへとんで来て、くんくん言ってよろこびました。
 こんなさわぎがあってから、二、三年の後《のち》です。ふたりは、やはり毎日一しょに出て来ましたが、そのうちに、もと病犬だった方は、だんだんに皮《ひ》ふ[#「ふ」に傍点]のつやがなくなり、のちには、あばら骨がかぞえられるほどやせて来て、食べものもろくに食べなくなり、店先へ出て来ても、ただ一日じゅう、しき石の上にごろりとなったきりで、ときには、何時間となく、こんこんと眠りつづけています。目も急にかすんで来たようです。肉屋はくびをかしげて考えました。
 夕方になると、その犬は、もうひとりの犬について、よちよちと寝どころへかえっていきます。ところが或とき、犬は一ぴきだけ来て、そのやせた犬は一日《いちんち》すがたを見せない日がありました。出て来た方は、夕方になると、もらった肉のきれを食べないでくわえてかえりました。
「ふふん、とうとうまた寝ついてしまったな。」と言い言い、肉屋は、あとからついていって見ました。犬の寝場所は、もとのところは、家でもたちつまっておいたてられたと見えて、先《せん》とはちがった場末《ばすえ》の、きたない空地《あきち》にうつっていました。病犬は、そこにころがっている古《ふる》材木の下にこごまって、苦しそうに腹でいきをしていました。
 肉屋は、あくる日、大きなあきだる[#「だる」に傍点]をもって来て、わらをどっさり入れて、小屋がわりにおいてやりました。そのあくる日は、どうしたものか、じょうぶな方の犬も出て来ません。肉屋はへんだとおもっていって見ますと、じょうぶな方の犬はたる[#「たる」に傍点]のまえにすわって、中にいる病犬の見はりをしていました。
「おい、どうしたい。」と、そのくびをなでたのち、
「これこれ、おれだよ。おきないか、おい。」と言って、中の犬をよびました。しかし犬は、目もあけないで、ぐんなりしているので、肉屋はひきおこしてやろうと思って、手をのばして、からだにさわりましたが、いきなり、あッと言って手を引っこめました。犬は、もう死んでつめたくなっていたのです。
 肉屋は、そこいらの片すみへ穴をほって、おお/\、かわいそうに/\と言い言い、死がいをうめてやり、その上へ土をもり上げました。もうひとつの犬は、かなしそうに、くんくんなきなきうろうろしていました。
 その翌《あく》る日、肉屋は、のこった犬をその空地《あきち》へかえさないようにして、すべてをわすれさせてやろうと思って、じぶんの家のうら手へきれいなわら[#「わら」に傍点]をしいたはこ[#「はこ」に傍点]をすえてやりました。しかし犬はどうしてもそこへ寝ないで、かえっていきます。ときには、もらった肉を、そのままくわえていくこともありました。へんだと思って、そのつぎの日についていって見ますと、きのうもってかえった肉は、そのままたる[#「たる」に傍点]のまえにころがっていました。犬は、ときどきあの犬がなくなってしまったのをわすれて、ものを食べさせようと思ってはもってかえるものと見えます。店先へ来ている間《あいだ》も死んだ犬と同じ毛色の犬がとおりかかると、いそいでとび出して、じろじろ見ていますが、間ちがったとわかると、さもがっかりしたように、しおしおとひきかえして来ます。
 犬はその後《のち》、だんだんにやせて元気がなくなって来ました。出て来ても、これまでのように、店の番もせず、何かなくしたものをさがすように、そこいらをまわって歩いたり、からになったような目つきをして、ものうそうに一つところを見つめていたりします。毛色も目立って灰色になり、皮ふ[#「ふ」に傍点]がたるんで、だんだんにあばら骨まで見えて来ました。肉屋は、そのすべてが、みんなあの犬をうしなったかなしみから来ているのだと思うと、かわいそうでたまりませんでし
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