私はじぶんのお金を八千ルーブルもつてゐる以外に、人の金なぞはもつてゐません、と、ちかつてかう言ひました。しかしイワンのその声はきれ/″\でした。恐怖のために顔はまつ青《さを》になつて、まるでその罪人かなぞのやうに、からだ中をがた/\ふるはせてゐました。
 巡査は兵たいに言ひつけて、イワンへ綱をかけさせました。イワンは両足をしばりつけられて、巡査の馬車の中になげこまれると、手で十字を切つて、泣き出しました。
 イワンは所持金と馬車につんでゐた商品をことごとく没収された上、そこから一ばん近くの町へはこばれて、牢屋《らうや》へおしこめられてしまひました。
 警察官はウラディミイルの町へ出かけて、イワンの人柄や、ふだんのおこなひなぞをとりしらべました。町の人たちは、イワンは、ずつと前にはよく酒も飲み、なまけもしてゐたが、近来はあまり酒も飲まない、根が正直ないゝ人間だと弁護しました。しかし裁判の結果、イワンは、あの、リアザンの商人を殺して二万ルーブルの金をとつた、実さいの犯人ときめられてしまひました。


    二

 イワンのおかみさんは、その宣告を聞いてびつくりしました。子ども二人はみんなまだ小さく、下の子なぞはお乳をはなれないくらゐです。おかみさんは、その二人の子どもをつれて、イワンが入れられてゐる牢屋《らうや》へたづねていきました。はじめはどうしても面会を許されませんでしたが、さんざんにねだりたのんで、やうやく聞きとゞけてもらひ、役人につれられて、イワンのそばへいきました。
 いつて見ると、イワンは囚人の服をきせられ、くさりでしばられて、盗人たちや、いろんな罪人たちと一しよに投げこまれてゐます。おかみさんは、イワンのそのありさまを見ると、その場へたふれて、目をまはしてしまひました。おかみさんは、人々にかいほうされて、やうやく正気にかへりました。そして、泣き/\子どもを引きよせて、一しよにイワンのそばへすわりました。そして家《うち》のことや、店のことなどを話したのち、イワンが町を出てからのことをくはしく聞きたゞしました。
「おや、まあ、さういふわけなのですか。……一たいどうしたらあなたのあかりが立つのでせう。」とおかみさんは涙をふき/\言ひました。
「かうなれば、最後に皇帝へ書面を出して、罪のないものに罰を加へて下さらないやうにおねがひするまでだ。」とイワンが答へました。
「私《わたし》はすぐに皇帝へ願書を出したのですが、つッかへされてしまひました。」とおかみさんが言ひました。イワンはそれを聞くと、もう何を言ふ力もないやうに、だまつてうつぶしてしまひました。
「だから一ばんはじめ私《わたし》がおとめしたでせう? あんなへんな夢を見たから、あの日は立つのをおよしなさいと言つたんですのに。ね、あなた、私にだけはほんとうのことを言つて下さい。あなたはじつさい何もしたんぢやないのですか。」と泣き/\問ひつめました。イワンは、両手を顔におしあてゝ、ぼろ/\涙を流しながら、
「あゝ、おまへまでも私《わし》をうたぐるのかい。」と言ひました。
 さうしてるところへ一人の兵たいが来て、おかみさんや子どもたちに立てと命じました。イワンは家族たちに、最後の「さやうなら」を言ひました。
 イワンは一人になると、今のさつき、おかみさんの言つたことを一々考へかへして見ました。
「あの女までが私《わし》をうたがはうとしてゐる。ほんとうのことは神さまが見てゐて下さるばかりだ。おすがりするのは神さまより外にはない。私《わし》はもう神さまのお慈愛をまつだけだ。」
 イワンはかう決心して、この上皇帝へ嘆願書を出すのも思ひとまり、すべての望みもなげうつてしまひました。そしてたゞ神さまへお祈りを上げました。
 イワンは笞刑《たいけい》を加へられた上、流罪にされることになりました。それでまづむちでもつて半死《はんじに》になるまでぶたれました。そしてその傷がなほるとすぐに、他の懲役人たちと一しよに、とほくシベリヤへおくられました。
 イワンはそこで二十六年の間服役しました。今はイワンの髪の毛も、すつかりまつ白になり、ひげも長くのびて、まばらに、そして灰色になつてしまひました。腰もこゞんで、歩くのも、のそり/\としか歩けなくなりました。心もすつかりしをれつくして口をきくこともまれですし、笑ふことなぞは一どだつてありません。たゞ、とき/″\だまつてお祈りを上げてゐるだけです。
 イワンは、こゝへ来てから、靴《くつ》をこしらへることを習ひました。そしてその仕事でわづかばかりのお金をもらふと、それでもつて「聖書」を買ひました。そして二十六年の間、毎日仕事がをはつてから日がくれるまでの間の、わづかなあかるみでもつて、一生けんめいにそれをよみつゞけました。それから日曜ごとには、獄中の教
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