の姿もよい。若し脇士を假りに消して想像すれば、更に美しい山容である。此山、此山肌の感觸はどうも、寫實精神の出た山である。
これで見ると、山の端に伸しあがつた日輪の思はれる阿彌陀の姿である。古語で雲居といふのは、地平線水平線のことだが、山の端などでも、夕日の沈む時、必見ることである。一度落ちかけた日が、も一度ぬつと伸しあがつて來る感じのするものだが――、この繪の阿彌陀佛には、實によく、其氣味あひが出てゐる。容貌の點から言ふと、金戒光明寺の方が遙かに美男らしいが、直線感の多い描線に圍まれたゞけに、ほんたうのふくらみが感じられぬ。こちらは、阿彌陀といふよりは、地藏菩薩と謂へば、その美しさは認められるだらう。腹のあたりまでしか出てゐぬが、すつく[#「すつく」に傍点]と立つた全身の、想見出來るやうな姿である。ところが其優れた山の描寫が亦、最異色に富んで居る。峰の二上山《フタカミヤマ》形に岐れてゐる事も、此圖に一等著しい。金戒光明寺の來迎圖は、唯の山の端を描いたばかりだし、其から後のものは、峰の分れて見えるのは、凡そこから道が通じて、聖衆が降つて來るやうに描かれてゐる。雲に乘つて居ながら、何も谷間
前へ
次へ
全33ページ中21ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
釈 迢空 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング