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つひに一度、ものを考へた事もないのが、此國のあて人の娘であつた。磨かれぬ智慧を抱いたまゝ、何も知らず思はずに、過ぎて行つた幾百年、幾萬の貴い女性《ニヨシヤウ》の間に、蓮《ハチス》の花がぽつちりと、莟を擡《モタ》げたやうに、物を考へることを知り初《ソ》めた郎女であつた。
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をれよ。鶯よ。あな姦《カマ》や。人に、物思ひをつけくさる。
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荒々しい聲と一しよに、立つて、表戸と直角《カネ》になつた草壁の蔀戸《シトミド》をつきあげたのは、當麻語部《タギマノカタリ》の媼《オムナ》である。北側に當るらしい其外側は、※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]を壓するばかり、篠竹が繁つて居た。澤山の葉筋《ハスヂ》が、日をすかして一時にきら/\と、光つて見えた。
郎女は、暫らく幾本とも知れぬその光りの筋の、閃き過ぎた色を、※[#「目+框のつくり」、第3水準1−88−81]《マブタ》の裏に、見つめて居た。をとゝひの日の入り方、山の端に見た輝きが、思はずには居られなかつたからである。
また一時《イツトキ》、盧堂《イホリドウ》を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、音するものもなかつた。日は段々|闌《タ》けて、小晝《コビル》の温《ヌク》みが、ほの暗い郎女の居處にも、ほつとりと感じられて來た。
寺の奴《ヤツコ》が、三四人先に立つて、僧綱が五六人其に、大勢の所化たちのとり捲いた一群れが、廬へ來た。
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これが、古《フル》山田寺だ、と申します。
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勿體ぶつた、しわがれ聲が聞えて來た。
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そんな事は、どうでも――。まづ、郎女《イラツメ》さまを――。
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噛みつくやうにあせつて居る家長老《イヘオトナ》額田部子古《ヌカタベノコフル》のがなり[#「がなり」に傍点]聲がした。同時に、表戸は引き剥がされ、其に隣つた、幾つかの竪薦《タツゴモ》をひきちぎる音がした。
づうと這ひ寄つて來た身狹乳母《ムサノチオモ》は、郎女の前に居たけ[#「居たけ」に傍点]を聳かして、掩ひになつた。外光の直射を防ぐ爲と、一つは男たちの前、殊には、庶民の目に、貴人《アデビト》の姿を暴《サラ》すまい、とするのであらう。
伴《トモ》に立つて來た家人《ケニン》の一人が、大きな木の叉枝《マタブリ》をへし折つて來た。さうして、旅用意の卷帛《マキギヌ》を、幾垂れか、其場で之に結び下げた。其を牀《ユカ》につきさして、即座の竪帷《タツバリ》―几帳―は調つた。乳母《オモ》は、其前に座を占めたまゝ、何時までも動かなかつた。
十二
怒りの瀧のやうになつた額田部[#(ノ)]子古は、奈良に還つて、公に訴へると言ひ出した。大和國にも斷つて、寺の奴ばらを追ひ放つて貰ふとまで、いきまいた。大師《タイシ》を頭《カシラ》に、横佩家に深い筋合ひのある貴族たちの名をあげて、其方々からも、何分の御吟味を願はずには置かぬ、と凄い顏をして、住侶たちを脅かした。
郎女は、貴族の姫で入らせられようが、寺の淨域を穢し、結界まで破られたからは、直にお還りになるやうには計はれぬ。寺の四至の境に在る所で、長期の物忌みして、その贖《アガナ》ひはして貰はねばならぬ、と寺方も、言ひ分はひつこめなかつた。
理分にも非分にも、これまで、南家の權勢でつき通して來た家長老《オトナ》等にも、寺方の扱ひと言ふものゝ、世間どほりにはいかぬ事が訣《ワカ》つて居た。
乳母《オモ》に相談かけても、一代さう言ふ世事に與つた事のない此人は、そんな問題には、詮《カヒ》ない唯の、女性《ニヨシヤウ》に過ぎなかつた。
先刻《サツキ》からまだ立ち去らずに居た當麻語部の嫗が、口を出した。
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其は、寺方が、理分でおざるがや。お隨ひなされねばならぬ。
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其を聞くと、身狹[#(ノ)]乳母は、激しく、田舍語部《ヰナカカタリベ》の老女を叱りつけた。男たちに言ひつけて、疊にしがみつき、柱にかき縋る古婆《フルバヾ》を掴み出させた。さうした威高さは、さすがに自《オノヅカ》ら備つてゐた。
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何事も、この身などの考へではきめられぬ。帥《ソツ》の殿《トノ》に承らうにも、國遠し。まづ姑《シバ》し、郎女樣のお心による外はないもの、と思ひまする。
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其より外には、方《ハウ》もつかなかつた。奈良の御館の人々と言つても、多くは、此人たちの意見を聽いてする人々である。よい思案を、考へつきさうなものも居ない。難波へは、直樣、使ひを立てることにして、とにもかくにも、當座は、姫の考へに任せよう、と言ふことになつた。
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郎女樣。如何お考へ遊ば
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