だ古《イニシヘ》の貴《アデ》びともあつた。娘の父にこき使はれて、三年五年、いつか處女に會はれよう、と忍び過した、身にしむ戀物語りもあるくらゐだ。石城《シキ》を掘り崩すのは、何處からでも鬼神《モノ》に入りこんで來い、と呼びかけるのと同じことだ。京の年よりにもあつたし、田舍の村々では、之を言ひ立てに、ちつとでも、石城を殘して置かうと爭うた人々が、多かつたのである。
さう言ふ家々では、實例として恐しい證據を擧げた。卅年も昔、――天平八年嚴命が降つて、何事も命令のはか/″\しく行はれぬのは、朝臣《テウシン》が先つて行はぬからである。汝等《ミマシタチ》進んで、石城を毀つて、新京の時世裝に叶うた家作りに改めよ、と仰せ下された。藤氏四流の如き、今に舊態を易《カ》へざるは、最其位に在るを顧みざるものぞ、とお咎めが降つた。此時一度、凡、石城はとり毀たれたのである。ところが、其と時を同じくして、疱瘡《モガサ》がはやり出した。越えて翌年、益々盛んになつて、四月北家を手初めに、京家南家と、主人から、まづ此|時疫《シエキ》に亡くなつて、八月にはとう/\、式家の宇合卿まで仆れた。家に、防ぐ筈の石城が失せたからだ、と天下中の人が騷いだ。其でまた、とり壞した家も、ぼつ/″\舊《モト》に戻したりしたことであつた。
こんなすさまじい事も、あつて過ぎた夢だ。けれどもまだ、まざ/″\と人の心に燒きついて離れぬ、現《ウツヽ》の恐しさであつた。
其は其として、昔から家の娘を守つた邑々も、段々えたい[#「えたい」に傍点]の知れぬ村の風に感染《カマ》けて、忍び夫《ヅマ》の手に任せ傍題《ハウダイ》にしようとしてゐる。さうした求婚《ツマドヒ》の風を傳へなかつた氏々の間では、此は、忍び難い流行であつた。其でも男たちは、のどかな風俗を喜んで、何とも思はぬやうになつた。が、家庭の中では、母・妻・乳母《オモ》たちが、いまだにいきり立つて、さうした風儀になつて行く世間を、呪ひやめなかつた。
手近いところで言うても、大伴宿禰にせよ。藤原朝臣にせよ。さう謂ふ妻どひ[#「妻どひ」に傍点]の式はなくて、數十代宮廷をめぐつて、仕へて來た邑々のあるじの家筋であつた。
でも何時か、さうした氏々の間にも、妻迎への式には、
[#ここから1字下げ]
八千矛の神のみことは、とほ/″\し、高志《コシ》の國に、美《クハ》し女《メ》をありと聞かして、賢《サカ》し女《メ》をありと聞《キコ》して……
[#ここで字下げ終わり]
から謠ひ起す神語歌《カミガタリウタ》を、語部に歌はせる風が、次第にひろまつて來るのを、防ぎとめることが出來なくなつて居た。
南家の郎女《イラツメ》にも、さう言ふ妻覓《ツママ》ぎ人が――いや人群《ヒトムレ》が、とりまいて居た。唯、あの型ばかり取り殘された石城《シキ》の爲に、何だか屋敷へ入ることが、物忌み―たぶう[#「たぶう」に傍点]―を犯すやうな危殆《ヒアヒ》な心持ちで、誰も彼も、柵まで又、門まで來ては、かいまみしてひき還すより上の勇氣が、出ぬのであつた。
通《カヨ》はせ文《ブミ》をおこすだけが、せめてものてだて[#「てだて」に傍点]ゞ、其さへ無事に、姫の手に屆いて、見られてゐると言ふ、自信を持つ人は、一人としてなかつた。事實、大抵、女部屋の老女《トシ》たちが、引つたくつて渡させなかつた。さうした文のとりつぎをする若人《ワカウド》―若女房―を呼びつけて、荒けなく叱つて居る事も、度々見かけられた。
[#ここから1字下げ]
其方《オモト》は、この姫樣こそ、藤原の氏神にお仕へ遊ばす、清らかな常處女《トコヲトメ》と申すのだ、と言ふことを知らぬのかえ。神の咎めを憚るがえゝ。宮から恐れ多いお召しがあつてすら、ふつ[#「ふつ」に傍点]においらへを申しあげぬのも、それ故だとは考へつかぬげな。やくたい者。とつとゝ失せたがよい。そんな文とりついだ手を、率《イザ》川の一の瀬で淨めて來くさらう。罰《バチ》知らずが……。
[#ここで字下げ終わり]
こんな風にわなり[#「わなり」に傍点]つけられた者は、併し、二人や三人ではなかつた。横佩家の女部屋に住んだり、通うたりしてゐる若人は、一人殘らず一度は、經驗したことだと謂つても、うそ[#「うそ」に傍点]ではなかつた。
だが、郎女は、つひに[#「つひに」に傍点]一度そんな事のあつた樣子も、知らされずに來た。
[#ここから1字下げ]
上つ方の郎女《イラツメ》が、才《ザエ》をお習ひ遊ばすと言ふことが御座りませうか。それは近[#(ツ)]代、ずつと下《シモ》ざまのをなご[#「をなご」に傍点]の致すことゝ承ります。父君がどう仰らうとも、父御《テヽゴ》樣のお話は御一代。お家の習しは、神さまの御意趣《オムネ》、とお思ひつかはされませ。
[#ここで字下げ終わり]
氏の掟の前には、氏上《ウヂノカミ》た
前へ 次へ
全40ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
釈 迢空 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング