もに鼻を蠢して語つた。
當麻の邑まで、をとゝひ夜《ヨ》の中に行つて居たこと、寺からは、昨日午後、横佩|墻内《カキツ》へ知らせが屆いたこと其外には、何も聞きこむ間のなかつたことまで。家持の聯想は、環のやうに繋つて、暫らくは馬の上から見る、街路も、人通りも、唯、物として通り過ぎるだけであつた。
南家で持つて居た藤原の氏上《ウヂノカミ》職が、兄の家から、弟仲麻呂―押勝―の方へ移らうとしてゐる。來年か、再來年《サライネン》の枚岡《ヒラヲカ》祭りに、參向する氏人の長者は、自然かの大師のほか、人がなくなつて居る。惠美家《ヱミケ》からは、嫡子|久須麻呂《クスマロ》の爲、自分の家の第一孃子をくれとせがまれて居る。先日も、久須麻呂の名の歌が屆き、自分の方でも、娘に代つて返し歌を作つて遣した。今朝《ケサ》も今朝、又折り返して、男からの懸想文《ケサウブミ》が、來てゐた。
その壻候補《ムコガネ》の父なる人は、五十になつても、若かつた頃の容色に頼む心が失せずにゐて、兄の家娘にも執心は持つて居るが、如何に何でも、あの郎女だけには、とり次げないで居る。此は、横佩家へも出入りし、大伴家へも初中終《シヨツチユウ》來る古刀自《フルトジ》の、人のわるい内證話であつた。其を聞いて後、家持自身も、何だか好奇心に似たものが、どうかすると頭を擡《モタ》げて來て困つた。仲麻呂は今年、五十を出てゐる。其から見れば、ひとまはりも若いおれなどは、思ひ出にまう一度、此|匂《ニホ》やかな貌花《カホバナ》を、垣内《カキツ》の坪苑《ツボ》に移せぬ限りはない。こんな當時の男が、皆持つた心をどり[#「をどり」に傍点]に、はなやいだ、明るい氣がした。
だが併し、あの郎女は、藤原四家の系統《スヂ》で一番、神《カム》さびたたち[#「たち」に傍点]を持つて生れた、と謂はれる娘御である。今、枚岡《ヒラヲカ》の御神《オンカミ》に仕へて居る齋《イツ》き姫《ヒメ》の罷める時が來ると、あの孃子《ヲトメ》が替つて立つ筈だ。其で、貴い所からのお召しにも應じかねて居るのだ。……結局、誰も彼も、あきらめねばならぬ時が來るのだ。神の物は、神の物――。横佩家の娘御は、神の手に落ちつくのだらう。
ほのかな感傷が、家持の心を淨めて過ぎた。おれは、どうもあきらめが、よ過ぎる。十《トヲ》を出たばかりの幼さで、母は死に、父は疾んで居る太宰府へ降つて、夙《ハヤ》くから、海の彼方《アナタ》の作り物語りや、唐詩《モロコシウタ》のをかしさを知り初《ソ》めたのが、病みつきになつたのだ。死んだ父も、さうした物は、或は、おれよりも嗜きだつたかも知れぬほどだが、もつと物に執着《シフヂヤク》が深かつた。現に、大伴の家の行く末の事なども、父はあれまで、心を惱まして居た。おれも考へれば、たまらなくなつて來る。其で、氏人を集めて喩したり、歌を作つて訓諭して見たりする。だがさうした後の氣持ちの爽やかさは、どうしたことだ。洗ひ去つた樣に、心がすつとしてしまふのだつた。まるで、初めから家の事など考へて居なかつた、とおなじすが/″\しい心になつてしまふ。
あきらめと言ふ事を、知らなかつた人ばかりではないか。……昔物語りに語られる神でも、人でも、傑れた、と傳へられる限りの方々は――。それに、おれはどうしてかうだらう。
家持の心は併し、こんなに悔恨に似た心持ちに沈んで居るに繋らず、段々氣にかゝるものが、薄らぎ出して來てゐる。
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ほう これは、京極《キヤウハテ》まで來た。
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朱雀|大路《オホヂ》も、こゝまで來ると、縱横に通る地割りの太い路筋ばかりが、白々として居て、どの區畫にも/\、家は建つて居ない。去年の草の立ち枯れたのと、今年生えて稍莖を立て初めたのとがまじりあつて、屋敷地から喰み出し、道の上までも延びて居る。
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こんな家が――。
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驚いたことは、そんな草原の中に、唯一つ大きな構への家が、建ちかゝつて居る。遲い朝を、もう餘程、今日の爲事に這入つたらしい木の道[#「木の道」に傍点]の者たちが、骨組みばかりの家の中で、立ちはたらいて居るのが見える。家の建たぬ前に、既に屋敷※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りの地形《ヂギヤウ》が出來て、見た目にもさつぱりと、垣をとり※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して居る。
土を積んで、石に代へた垣、此頃言ひ出した築土垣《ツキヒヂガキ》といふのは、此だな、と思つて、ぢつと目をつけて居た。見る/\、さうした新しい好尚《コノミ》のおもしろさが、家持の心を奪うてしまつた。
築土垣《ツキヒヂガキ》の處々に、きりあけた口があつて、其に、門が出來て居た。さうして、其處から、頻りに人が繋つては出て來て、石を曳く。木を搬《モ》つ。土を搬び入れる
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