の聲である。だが、そんなことは、郎女の心には、問題でもなかつた。
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おわかりなさるかえ。これかう――。
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姫の心は、こだま[#「こだま」に傍点]の如く聰《サト》くなつて居た。此|才伎《テワザ》の經緯《ユキタテ》は、すぐ呑み込まれた。
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織つてごらうじませ。
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姫が、高機に代つて入ると、尼は機陰に身を倚せて立つ。
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はた はた ゆら ゆら。
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音までが、變つて澄み上つた。
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女鳥《メトリ》の わがおほきみの織《オロ》す機。誰《タ》が爲《タ》ねろかも――、御存じ及びでおざりませうなう。昔、かう、機殿《ハタドノ》の※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]からのぞきこうで、問はれたお方樣がおざりましたつけ。――その時、その貴い女性《ニヨシヤウ》がの、
たか行くや 隼別《ハヤブサワケ》の御被服料《ミオスヒガネ》――さうお答へなされたとなう。
この中《ヂユウ》申し上げた滋賀津彦《シガツヒコ》は、やはり隼別でもおざりました。天若日子《アメワカヒコ》でもおざりました。天《テン》の日《ヒ》に矢を射かける――。
併し、極みなく美しいお人でおざりましたがよ。截《キ》りはたり ちようちよう。それ―、早く織らねば、やがて、岩牀の凍る冷い冬がまゐりますがよ――。
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郎女は、ふつと覺めた。あぐね果てゝ、機の上にとろ/\とした間の夢だつたのである。だが、梭をとり直して見ると、
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はた はた ゆら ゆら。ゆら はたゝ。
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美しい織物が、筬の目から迸る。
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はた はた ゆら ゆら。
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思ひつめてまどろんでゐる中に、郎女の智慧が、一つの閾を越えたのである。

        十九

望の夜の月が冴えて居た。若人たちは、今日、郎女の織りあげた一反《ヒトムラ》の上帛《ハタ》を、夜の更けるのも忘れて、見讃《ミハヤ》して居た。
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この月の光りを受けた美しさ。
※[#「糸+慊のつくり」、第3水準1−90−17]《カドリ》のやうで、韓織《カラオリ》のやうで、――やつぱり、此より外にはない、清らかな上帛《ハタ》ぢや。
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乳母も、遠くなつた眼をすがめながら、譬へやうのない美しさと、づゝしりとした手あたりを、若い者のやうに樂しんでは、撫でまはして居た。二度目の機は、初めの日數の半《ナカラ》であがつた。三反《ミムラ》の上帛《ハタ》を織りあげて、姫の心には、新しい不安が頭をあげて來た。五反《イツムラ》目を織りきると、機に上ることをやめた。さうして、日も夜も、針を動した。
長月の空は、三日の月のほのめき出したのさへ、寒く眺められる。この夜寒に、俤人の肩の白さを思ふだけでも、堪へられなかつた。
裁ち縫ふわざは、あて人の子のする事ではなかつた。唯、他人《ヒト》の手に觸れさせたくない。かう思ふ心から、解いては縫ひ、縫うてはほどきした。現《ウツ》し世《ヨ》の幾人にも當る大きなお身に合ふ衣を、縫ふすべを知らなかつた。せつかく織り上げた上帛《ハタ》を、裁《タ》つたり截《キ》つたり、段々布は狹くなつて行く。
女たちも、唯姫の手わざを見て居るほかはなかつた。何を縫ふものとも考へ當らぬ囁きに、日を暮すばかりである。
其上、日に増し、外は冷えて來る。人々は一日も早く、奈良の御館に歸ることを願ふばかりになつた。郎女は、暖かい晝、薄暗い廬の中で、うつとりとしてゐた。その時、語部《カタリ》の尼が歩み寄つて來るのを、又まざ/″\と見たのである。
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何を思案遊ばす。壁代《カベシロ》の樣に縱横に裁ちついで、其まゝ身に纒ふやうになさる外はおざらぬ。それ、こゝに紐をつけて、肩の上でくゝりあはせれば、晝は衣になりませう。紐を解き敷いて、折り返し被《カブ》れば、やがて夜の衾《フスマ》にもなりまする。天竺の行人《ギヤウニン》たちの著る僧伽梨《ソウギヤリ》と言ふのが、其でおざりまする。早くお縫ひあそばされ。
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だが、氣がつくと、やはり晝の夢を見て居たのだ。裁ちきつた布を綴り合せて縫ひ初めると、二日もたゝぬ間に、大きな一面の綴りの上帛《ハタ》が出來あがつた。
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郎女樣は、月ごろかゝつて、唯の壁代をお織りなされた。
あつたら、惜しやの。
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はり[#「はり」に傍点]が拔けたやうに、若人《ワカウド》たちが聲を落して言うて居る時、姫は悲しみながら、次の營みを考へて居た。
「これでは、あまり寒々としてゐる。殯《モガリ》の庭の棺
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