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つひに一度、ものを考へた事もないのが、此國のあて人の娘であつた。磨かれぬ智慧を抱いたまゝ、何も知らず思はずに、過ぎて行つた幾百年、幾萬の貴い女性《ニヨシヤウ》の間に、蓮《ハチス》の花がぽつちりと、莟を擡《モタ》げたやうに、物を考へることを知り初《ソ》めた郎女であつた。
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をれよ。鶯よ。あな姦《カマ》や。人に、物思ひをつけくさる。
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荒々しい聲と一しよに、立つて、表戸と直角《カネ》になつた草壁の蔀戸《シトミド》をつきあげたのは、當麻語部《タギマノカタリ》の媼《オムナ》である。北側に當るらしい其外側は、※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]を壓するばかり、篠竹が繁つて居た。澤山の葉筋《ハスヂ》が、日をすかして一時にきら/\と、光つて見えた。
郎女は、暫らく幾本とも知れぬその光りの筋の、閃き過ぎた色を、※[#「目+框のつくり」、第3水準1−88−81]《マブタ》の裏に、見つめて居た。をとゝひの日の入り方、山の端に見た輝きが、思はずには居られなかつたからである。
また一時《イツトキ》、盧堂《イホリドウ》を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、音するものもなかつた。日は段々|闌《タ》けて、小晝《コビル》の温《ヌク》みが、ほの暗い郎女の居處にも、ほつとりと感じられて來た。
寺の奴《ヤツコ》が、三四人先に立つて、僧綱が五六人其に、大勢の所化たちのとり捲いた一群れが、廬へ來た。
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これが、古《フル》山田寺だ、と申します。
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勿體ぶつた、しわがれ聲が聞えて來た。
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そんな事は、どうでも――。まづ、郎女《イラツメ》さまを――。
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噛みつくやうにあせつて居る家長老《イヘオトナ》額田部子古《ヌカタベノコフル》のがなり[#「がなり」に傍点]聲がした。同時に、表戸は引き剥がされ、其に隣つた、幾つかの竪薦《タツゴモ》をひきちぎる音がした。
づうと這ひ寄つて來た身狹乳母《ムサノチオモ》は、郎女の前に居たけ[#「居たけ」に傍点]を聳かして、掩ひになつた。外光の直射を防ぐ爲と、一つは男たちの前、殊には、庶民の目に、貴人《アデビト》の姿を暴《サラ》すまい、とするのであらう。
伴《トモ》に立つて來た家人《ケニン》の一人が、大きな木の
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