、この書物にはこの事件に関するなんの形をもとどめていません」と、検屍官はそれを上衣《うわぎ》のポケットに滑《すべ》り込ませた。「これにある記事はみんな本人の死ぬ前に書いたものです」
ハーカーが出て行ったあとへ、陪審官らは再びはいって来て、テーブルのまわりに立った。そのテーブルの上には、かの掩《おお》われたる死体が、敷布《シーツ》の下に行儀よく置かれてあった。陪審長は胸のポケットから鉛筆と紙きれを把《と》り出して、念入りに次の評決文を書くと、他の人びともみな念を入れて署名した。
――われわれ陪審官はこの死体はマウンテン・ライオン(豹の一種)の手に因《よ》って殺されたるものと認む。但《ただ》し、われわれのある者は、死者が癲癇《てんかん》あるいは痙攣のごとき疾病を有するものと思考し、一同も同感なり。
四
ヒュウ・モルガンが残した最後の日記は確かに興味ある記録で、おそらく科学的の暗示を与えるものであろう。その死体検案の場合に、日記は証拠物として提示されなかった。検屍官はたぶんそんなものを見せることは、陪審官の頭を混乱させるに過ぎないと考えたらしい。日記の第一項の日付けははっきりせず、その紙の上部は引き裂かれていたが、残った分には次のようなことが記《しる》されている。
――犬はいつでも中心の方へ頭をむけて、半円形に駈けまわる。そうして、ふたたび静かに立って激しく吠える。しまいには出来るだけ早く藪《やぶ》の方へ駈けてゆく。はじめはこの犬め、気が違ったのかと思ったが、家《うち》へ帰って来ると、おれの罰を恐れている以外に別に変わった様子も見せない。犬は鼻で見ることが出来るのだろうか。物の匂いが脳の中枢に感じて、その匂いを発散する物の形を想像することが出来るのだろうか。
九月二日――ゆうべ星を見ていると、その星がおれの家の東にあたる畔《あぜ》の境の上に出ている時、左から右へとつづいて消えていった。その消えたのはほんの一|刹那《せつな》で、また同時に消える数がわずかだったが、畔の全体の長さに沿うて一列二列の間はぼかされていた。おれと星との間を何物かが通ったのらしいと思ったが、おれの眼にはなんにも見えない。また、その物の輪郭を限ることの出来ないほどに、星のひかりも曇ってはいないのだ。ああ、こんなことは忌《いや》だ……。
(日記の紙が三枚|剥《は》ぎ取られている
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