いる墓石は、昔日の鮮烈な生活を物語っている。自己の功績、自己の真理、自己の戦い、自己の科学に対する燃ゆるがごとき信念を物語っている。僕はきっといきなり地べたへ身を投げ、その墓石に接吻《くちづけ》をして、その上に泣き伏すだろうことを今からちゃんと承知しているが、それと同時に、それが皆とうの昔からただの墓場にすぎず、それ以上の何物でもないことも真底から確信しているんだ。それに僕が泣くのは絶望のためではなく、ただ自分の流した涙によって幸福を感ずるためにほかならないんだ。つまり自分の感動に酔おうというわけだ。僕はねばっこい春の若葉や青い空を愛するんだ。ここだよ! 理知も論理もなく、ただ衷心から、真底から愛するばかりなんだ。自分の若々しい力を愛するばかりなんだ……なあ、アリョーシャ、僕のこのナンセンスがわかってくれるかい、それともわからないかい?」そう言ってイワンは急に笑いだした。
「わかりすぎるぐらいですよ、兄さん。衷心から、真底から愛したいって、それはすばらしいことばでしたね。僕もそんなに兄さんが生きたいとおっしゃるのが、とても嬉しいんですよ」とアリョーシャは叫んだ。「人はすべて何よりもまだ地上で生を愛さなければならないと思います」
「生の意義以上に生そのものを愛するんだね?」
「断然そうなくっちゃなりません。あなたのおっしゃるとおり論理より前にまず愛するのです。ぜひとも論理より前にですよ。それでこそはじめて意義もわかってきます。そのことはもう以前から僕の頭の中に浮かんでいたんですよ。兄さん、あなたの事業の前半はもう成就もし、獲得もされました。今度はその後半のために努力しなければなりません。そうすればあなたは救われますよ」
「もうおまえは救いにかかっているんだね。ところがね、僕は案外、滅亡に瀕《ひん》してなんかいないかもしれないよ。ところでおまえのいわゆる後半というのはいったいなんだね?」
「つまり、あなたの死人たちを蘇生《そせい》させる必要があるというのです。たぶん、彼らはけっして死んではいないのかもしれませんよ。さあ、お茶をいただきましょう。僕はこうしてお話をするのが、とても嬉しいんですよ。イワン」
「見たところ、おまえは何かインスピレーションでも感じているらしいな。僕は、おまえのような……新発意《しんぼち》から、そんな Profession de foi(信仰告白)を聞くのが大好きなんだ。おまえはしっかりした人間だね。アレクセイ、おまえが修道院を出るっていうのは本当かい?」
「本当です。長老様が世の中へ僕をお送りになるのです」
「じゃ、また世間で会えるね。僕が三十そこそこになって、そろそろ杯から口を離そうとする時分に、どこかで落ち合うことがあるだろうよ。ところで親父は自分の杯から七十になるまで離れようとしないらしい。いや、もしかすると、八十までもと空想してるのかもしれない。自分でもこれは非常にまじめなことだと言ったっけ。もっとも、ただの道化にすぎないがね。親父は自分の肉欲の上に立って、大磐石でもふまえたような気でいるんだ……が、三十を過ぎたら、それより他には立つ足場がないだろうからね、全く……それにしても七十までは卑劣だ、三十までがまだしもだよ。なにしろ、自分を欺きながらも『高潔の影』を保つことができるからね。今日ドミトリイには会わなかったかな?」
「ええ会いませんでしたよ、ただスメルジャコフには会いました」と、アリョーシャは下男との邂逅《かいこう》を手短かに兄に話した。イワンは急に、ひどく気がかりになったらしく耳を傾け始め、何やかやと問い返しさえした。
「ただね、自分の話したことをドミトリイ兄さんに言わないでくれって頼みましたっけ」と、アリョーシャは言い足した。
イワンは苦い顔をして考えこんだ。
「兄さんはスメルジャコフのことで苦い顔をするんですか?」とアリョーシャが聞いた。
「ああ、やつのことで。しかし、あんなやつのこと、どうでもいい。僕はドミトリイには本当に会いたかったが、今はもうその必要もない……」と、イワンは進まぬ調子で言った。
「兄さんは本当にそんなに急に立つんですか?」
「ああ」
「じゃ、ドミトリイやお父さんはどうなるんです? あの騒ぎはどうかたがつくんでしょう?」と、アリョーシャは不安そうに言いだした。
「またおまえのお談義かい! そのことが僕になんの関係があるんだ? 僕がいったい、ドミトリイの番人だとでもいうのかい?」とイワンはいらいらした声で断ち切るように言ったが、不意に妙な苦笑を浮かべた。
「弟殺しについてカインが神様に答えたことばかえ? え、今おまえはそれを考えてるんだろう? しかし、どうとも勝手にしろだ。僕は全くあの人たちの番人をしているわけにはいかないよ。仕事がかたづいたから出かけようというのさ。また、僕がドミトリイを妬《や》いてるのだの、三か月のあいだ兄貴の美しい許嫁《いいなずけ》を横取りしようとしていただのとは、まさかおまえも考えてやしなかったろうな。ええ、まっぴら御免だぜ。僕には僕の仕事があったんだ。その仕事がかたづいたから出かけるのさ。さっき僕が仕事をかたづけたのは、おまえが現に証人じゃないか」
「それは、さっきあのカテリーナ・イワーノヴナのところで……」
「そうさ、あのことだよ。一度できれいさっぱりと身を引いてしまったよ。それがいったいどうしたというんだ? ドミトリイに僕がなんの関係があるんだ? ドミトリイなんかの知ったことじゃないんだ。僕はただ自分自身カテリーナ・イワーノヴナに用があっただけの話さ。それをおまえも知ってのとおり、ドミトリイが勝手に何か僕と申し合わせでもしたような行動をとったんだ。僕が兄貴に少しも頼みもしないのに、勝手に兄貴のほうでいやにもったいぶって、あの女を僕に譲って祝福したまでの話じゃないか。全くお笑いぐさだよ。いやいや、アリョーシャ、おまえにはわかるまいけれど、僕は本当に今とてもせいせいした気持なんだよ! さっきもこうしてここに坐って食事をしているうちに、はじめて自由になった自分の時を祝うために、すんでのこと、シャンパンを注文しようとしたくらいなんだ。ちぇっ、ほとんど半年ものあいだずるずると引きずられていたが、急に一度で、全く一度ですっかり重荷がおりたよ。ほんとにその気にさえなれば、こんなに造作なくかたづけられようとは、昨日までは夢にも考えなかったからね」
「それは自分の恋についての話なんですか、イワン?」
「そう言いたければ恋と言ってもいいさ。なるほど僕はあのお嬢さんに、あの女学生に、すっかり惚《ほ》れてたのさ。あの人と二人でかなり苦労したもんだ。そしてあの人もずいぶん僕を苦しめたよ。いや本当にあの人に打ちこんでいたんだ――それが急にすっかり清算がついてしまった。さっき僕はいやに感激してしゃべったけれど、外へ出るなりからからと笑っちゃったよ――おまえ本当にするかい、いや、これは文字どおりの話なんだよ」
「今でもなんだか愉快そうに話してますね」と、実際にばかに愉快そうになってきた兄の顔をじっと眺めながら、アリョーシャが口を出した。
「それに、僕があの人をちっとも愛していないなんてことが、僕にわかるはずはなかったじゃないか、へへ! ところが、はたしてそうでないってことがわかったよ。あの人はひどく僕の気に入ってたんだよ。さっき僕が演説めいたことをしゃべったときでも、やっぱり気に入ってたんだよ。そして実はね、今でもひどく気に入ってるんだ。けれど、あの人のそばを離れて行くのが、とてもせいせいするんだよ。おまえは僕が駄法螺《だぼら》を吹いてるんだとでも思うかえ?」
「ううん、でも、ことによったらそれは恋ではなかったのかもしれませんよ」
「アリョーシャ」と、イワンは笑いだした、「恋の講釈なんかよせよ! おまえには少し変だよ。さっきも、さっきもさ、飛び出して口を入れたね、恐れ入るよ! あ、忘れてた……あのお礼におまえを接吻しようと思ってたんだ……。だが、あの人はずいぶん僕を苦しめた! 本当に羽目のそばに坐ったようなもんだ。おお、僕があの人を愛してるってことは、あの人も自分で承知しているのさ! そして自分でも僕を愛していたので、けっしてドミトリイを愛してたのじゃない」と、イワンは愉快そうに言い張るのであった。「ドミトリイは羽目さ。僕がさっきあの人に言ったことは、みんな間違いのない真理なんだ。しかし、ただ何より大事なことは、あの人がドミトリイをちっとも愛していないで、かえって自分でこんなに苦しめている僕を愛しているということを自分で悟るためには、十五年、二十年の歳月を要するってことだ。ところが、ことによったら、あの人は今日のような経験をしても、永久にそれを悟ることができないかもしれんよ。でも、まあそのほうがいいさ。立ち上がって、そのまま永久に離れ去ってしまったわけだ。ときにあの人は今どうしてるね? 僕の帰ったあとでどうだったい?」
アリョーシャはヒステリイの話をして、彼女は今でもまだ意識がはっきりしないで、うわごとを言っているだろうとまで付け足した。
「ホフラーコワが嘘をついたんじゃないか?」
「そうではないらしいんです」
「だって、調べてみなくちゃならないよ、ただ、ヒステリイで死んだものは、一人もないからね、ヒステリイというやつはあってもいいだろう。神様は好んで女にヒステリイをお授けになったのだ。僕はもう二度とあすこへは行かない。何も今さら顔を出すにも当たるまいからな」
「でも、兄さんはさっきあの人にこんなことを言ったでしょう、あの人はついぞ兄さんを愛したことがなかったって」
「あれはわざと言ったんだよ。アリョーシャ、シャンパンを注文しようかね。僕の自由のために飲もうじゃないか。いや、僕が今どんなに嬉しいかわかってくれたらなあ!」
「いいえ、兄さん、飲まないほうがいいでしょう」と不意にアリョーシャが言った、「それに僕はなんだか気が滅入ってならないんです」
「ああ、おまえはずっと前から気が滅入ってるようだね、かなり前から僕にも気はついてたよ」
「じゃ、明日の朝はどうしても出立するんですか?」
「朝? 何も僕は朝と言ったわけじゃないよ……けれど、あるいは本当に朝になるかもしれないな。ところで、僕が今日、ここで食事をしたというのはね、ただ親父といっしょに食事をしたくなかったからなんだよ。それほど僕はあの親父がいやでたまらなくなったんだ。僕はそのことだけでも、とうに出立していたはずなんだ。しかし、僕が出立するからって、どうしておまえはそんなに心配するんだ? 僕とおまえとのために与えられた時間は、出発までにまだどのくらいあるかわかりゃしない。永劫《えいごう》だ、不滅だ!」
「明日出立なさるというのに、どうして永劫だなんて言うんです?」
「僕とおまえとは、あんなことにはまるっきり無関係じゃないか?」とイワンは笑いだした、「だって、なんといったって、自分のことは大丈夫話し合う暇があるからなあ、自分のことは……いったい僕たちはなんのためにわざわざここへやって来たんだろう? なんだっておまえはそんなにびっくりしたような眼つきをするんだい? さあ、言って御覧、僕たちはなんのためにここへやって来たんだ? カテリーナ・イワーノヴナに対する恋や、親父のことや、ドミトリイのことを話しに来たというのかえ? 外国の話かえ? ロシアの因果な国情の話ででもあるのかえ? ナポレオン皇帝のことでも話しに来たというのかえ? そうなのかえ? そんなことのためなのかえ?」
「いいえ、そんなことのためじゃありません」
「そんなら、自分でも何のためかわかってるだろう。ほかの人たちにはあることが必要だろうが、われわれ嘴《くちばし》の黄色い連中にはまた別のものが必要なんだ。われわれはまず最初に永遠の問題を解決しなければならない。これがいちばんわれわれの気にかかるところなんだ。いま若きロシアはただ永遠の問題ばかり取りあげている。しかもそれが、ちょうど老人たちがみな急に実際問題について騒ぎだした現在なんだからな。おま
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